『きみと、波にのれたら』の違和感の正体 湯浅政明監督の作風から探る

『きみと、波にのれたら』の違和感の正体

 また同時に、“現実の生活が充実している”、すなわち「リア充」と呼ばれる、素敵な理想の恋人と楽しい日々を送る二人が主人公だというのも、本作の特徴である。そのような人たちと、現在のアニメーションのコアな観客との間に断絶があるかといえば、それはやはりあるだろう……。

 素敵な恋人たちの関係を見て、自分をそこに投影するというのは、恋愛映画の王道といえる楽しみ方である。しかし、近年の日本のアニメーション作品は、実写ドラマのようなストレートな恋愛描写を避ける傾向にある。なぜなら、ドラマよりも現実から離れることができるアニメ作品においてリア充が描かれるというのは、「非リア充」である現実を観客や視聴者に意識させることによって、それがある種のストレスになるという事情を、製作側が忖度し、そこを刺激することを極力やめようという暗黙の了解が、一部で出来上がってしまったからである。

 だから、『君の名は。』(2016年)のような大ヒット作の出現は、ある種の衝撃であった。とはいえ、その主人公たちの造形や設定は依然としてオタク的な文脈のなかにあったといえるだろう。『きみと、波にのれたら』は、そこすら超えていこうとする作品なのだ。

 『マインド・ゲーム』(2004年)からはじまる湯浅監督の作風を振り返れば、じつは本作はそれほど意外な題材ということもない。湯浅作品は、アニメファンのメインストリームではなく、どちらかというとアニメにもアンテナを伸ばすアートやサブカルチャー方面に興味のある人々から強く支持されている印象がある。つまり、“オタク”の文脈をあまり感じさせないアニメを作ることで、日本のアニメ文化の多様性を大きく広げるという仕事をしてきたのだ。

 『マインド・ゲーム』や『夜明け告げるルーのうた』が、海外の映画祭で賞を受賞し、高い評価を得たり、日本人である湯浅監督が、アメリカのTVアニメ『アドベンチャー・タイム』のエピソードの演出を担当できたのも、まさにそのような広い視野を獲得しているからであるだろう。だから、今回サーファーを主人公にしたり、若者のドラマを描いたりすることにも、さして無理を感じるところはない。先入観や固定観念に縛られ、視野の狭い監督が本作を担当したら、目もあてられない作品になってしまうところである。それは、トレンドに適応できるというような能力ではなく、多くのものごとをフラットに理解する能力に長けているというところからくる。

 その意味において本作は、『君の名は。』のような、監督の持っているオタク的な資質や文脈を矯正するプロセスを経ていくことで、マスの需要に流れ込むことに成功した作品とは趣が異なる。そしておそらく、本作が新たに掘り起こそうとする観客層は、『君の名は。』とも微妙に異なるはずだ。本当にその層が動くかどうかというところは非常に興味深いが、どちらにせよ、このようなチャレンジングな作品が作られていかなければ、本来は多様な価値観を持っていたはずのアニメ文化は、日本において細分化された閉塞的な文化に過ぎなくなっていくのではないだろうか。

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