ゴジラへの暴走気味の想いが短所であり長所にも 『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』の美学

『ゴジラ KOM』の美学

 ゴジラ、ラドン、モスラ、キングギドラが世界中をブッ壊しながら戦う。シンプルなお祭り映画なのに、『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』(2019年)は非常に難しい映画だ。アメリカの大手映画レビューサイトで批評家と観客の評価がハッキリ分かれたのも納得できる。もしもゴジラに何の興味もなければ、この映画は怪獣と狂人たちのお祭り騒ぎにしか見えないだろう。

 そのうえゴジラに興味があったとしても、ある人は喝采を送るだろうし、ある人は拒否反応を示すはずだ。この映画は怪獣への想い入れが強すぎるあまり、人間側の話がビックリするほど雑になっている。私は怪獣映画の主役は怪獣だと思っているし、なんなら人間がいなくてもいいと思うが、人間を出すならちゃんと扱ってほしい。気持ちよく怪獣の破壊活動を見守れるように、ストレスのない範囲/邪魔にならない範囲で収めてほしいし、あるいは怪獣対決を盛り上げるためのモチベーションになってほしいと思う。たとえば『ガメラ 大怪獣空中決戦』(1995年)の、ギャオスを守ろう→ギャオスは人を食いますよ→おまけに交尾なしで繁殖できるらしい。あっ、これヤバくない?→助けて! ガメラ! の流れは理想的な人間の使い方だと思う(ハリウッド映画なら『AVP2 エイリアンズVS.プレデター』(2007年)のプールで皆殺しにされる学生たちとか)。本作は予告でも明らかになっているように、人間が怪獣たちを戦いへ導くのだが、その導き方がすごく強引である。キャラクターも話の都合に合わせて動いている感は否めないし、現実の観客から見た時に理解不能な行動を取ることもしばしば(さすがに作り手たちも自覚はあったのか、劇中でアイス・キューブの息子が魂の苦言を呈してくれる)。せっかく名もない軍人たちが景気よく怪獣に特攻していくのに、主要登場人物のドラマが悪い意味で気になるのは致命的だ。

 また、この映画はゴジラ生誕の地である「日本」にも行き過ぎたリスペクトを持っており、ある意味で日本人にとって新鮮すぎる1本である。たとえるなら、何かの間違いで超豪華な接待に招待されて、嬉しいものの「こんなにお金を使って本当にイイんですか?」と困惑するような感覚だ。スクリーンからは常に「ソレソレソレソレ……!」「ソイヤ! ソイヤ!」と聞き慣れた祭りの掛け声が飛んでくる。いくらお祭り映画だからって、本当に「ソイヤ! ソイヤ!」と叫ぶ映画は初めて観た。これだけでもビックリだが、海底の超古代文明の遺跡を舞台に、ちまたに溢れるトンデモ歴史観を一蹴する驚愕の日本秘史まで語られる。このシーンは恐らく非・日本語圏の人たちなら「オリエンタルな雰囲気やなぁ」で片付けられるのだろうが、私は小市民なせいか100億円以上もかけた超大作で何をしているんだと目を疑った。作品全体への賛否両論あれど、このシーンは数年後まで「なんだったんだ、アレは……」と記憶に残ることだろう。

 話を戻そう。ここまで書いた通り、本作はゴジラへの暴走気味の想いが目立つ。それは短所(しかも致命的な)でもあるが、ところがどっこい、それと同時に長所でもあるから映画は難しい。監督を務めたマイケル・ドハティの「俺の脳内だけにあった最高の怪獣バトルを最新技術で世に出すんだ!」というヤケクソ気味の情熱は、素晴らしい怪獣バトルを生み出した。平成・昭和のゴジラを観てきた者たちが「これは着ぐるみだけど、実際にゴジラとギドラが戦っていたら、きっとこんなふうになるんだろうなぁ」という想像図を全力で映像化してくれている。足下から怪獣同士の大乱闘を見上げるのは新鮮だし、引きの絵はどれも完璧にキマっていた(十字架とギドラの咆哮は期待通りのOne Perfect Shot!)。こうしたドハティの強い気持ち・強い愛は実を結んでいたように思う。代償に映画全体がかなりいびつな形になったし、なんなら平成どころか昭和ゴジラに近い大味さもあるが、とにかくやりきったのは偉い。全速力で時代を逆行……これもまた1つの美学である。怪獣バトルが始まると、ずっと拳を握りっぱなし、前のめりになりっぱなしだった。もう少し付け足すと、モンスターバース内のリアリティの基準を大きく広げたことも評価したい。こういう雰囲気ならメカゴジラも出せるだろうし、コング以外の怪獣が合流してきても平気だろう。モンスターバースの新作として控えている『Godzilla vs. Kong』(2020年)への期待度も急上昇だ。

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