フィリップ・ガレルは“小さな世界”に囚われた作家ではないーー『救いの接吻』日本初公開に寄せて

 スピルバーグかP・T・アンダーソンか、ホン・サンスもいればジェームズ・グレイも捨て難い――と、昨年末、ベストテンの季節を前にもやもやと悩んでいたのが嘘のようにいざとなったらあっけなく、迷いなくフィリップ・ガレル『つかのまの愛人』を1位に選んでいた。するりと胸に入り込み、気づいてみるとすごく好きというこの感じ、重々しい巨匠なんかに決しておさまろうとしないガレルの映画ならではの磁力ともいえるだろう。

 ヌーヴェルヴァーグの後に来た映画作家たち――ユスターシュ、ドワイヨン、ピアラ等と共に70年代にかけ頭角を現して極私性が光る世界を差し出してきたガレルの核心には、68年パリ、政治と革命の季節とその挫折、宿命のヒロイン、ニコとの破滅的な愛と別れ、ドラッグとロックンロール、アートと暮らしの葛藤といった、飽くことなく繰り返される主題が備わっている。それはやはり“祭りの後”の70年代、日活ロマンポルノで描かれた四畳半的青春のじくじくとした痛みや虚ろとも通じるようでいっそう親密に胸に迫る。が、見逃せないのはガレルがその後の歳月に耐えしぶとく作り続けてきたことだ。そうやって鍛えられた”私映画”には、やわな感傷と一線を画す思想と思考、感情と情動の鋼の強さが軽やかに獲得されてきた。変わらぬひとつの主題を全うしてきたようなガレルの映画は実際、逞しく進化を呑み込み、さらなる変化を遂げつつあるらしい。

 『ジェラシー』『パリ、恋人たちの影』『つかのまの愛人』という直近の3部作が差し出す新たな世界の広がりを目にすれば、『救いの接吻』『ギターはもう聞こえない』と30年前の快作を今、改めて見直すスリルもうれしくかみしめずにはいられない。

 まずは3部作に見た新しいガレルの世界の芽のことから始めてみよう。

 父モーリス・ガレルの若き日の恋を素材にした『ジェラシー』は、絶望的な負のスパイラルめいた展開を持ちながら、ふっと涙ぐましく秋の初めの風を感知するような後味を残す。父、母、愛人をめぐる葛藤を自身も“ジェラシー”の輪に身を置きつつみつめていた子供ガレル(劇中では女の子に設定されている。ちなみにこの子役オルガ・ミシュタンの起用はドワイヨン監督作『アナタの子供』での好演に負っているようだ)の中で、反芻され咀嚼され痛みを超えて昇華された記憶。時という距離を介したそれが、懐かしさや慈しみの心を伴って涼やかな映画の肌触りを招き寄せていく。

 続く『パリ、恋人たちの影』はまたしてもだめだめ男の話ともいえるけれど、そこに奇妙な軽やかさが加わっているのが印象的だ。達観というのか、人を見る目にやさしい距離があって、大人になれない面々を描く自分が大人になってしまったか――というような諦念、寂しさにも似たものが感知される。前作で自らの子供時代を投影していたあの女の子の眼差しにあったもの、つまりは対照への距離の感覚、それがシンプルな語り口の奥行となって光る。

『パリ、恋人たちの影』(c)2014 SBS PRODUCTIONS – SBS FILMS – CLOSE UP FILMS – ARTE FRANCE CINEMA

 前作の父に対しここでは亡き母に想を得たというガレルは自身の私小説的世界を踏襲しつつも、息子ルイ・ガレルによる語りを挿入してトリュフォーごしに19世紀の古典的小説の話術に目配せしてみせたりもする。一人称の映画と一線を画す意志をさらりと垣間見せる。ピアラとのコンビで知られるアルレット・ラングマン、現在の妻カロリーヌ・ドゥリュアスという前作以来のふたりの女性に加えて脚本に大御所ジャン=クロード・カリエールを迎えているのもどこか寓話的でさえあるような物語をかっちりと語ることへの傾きを示すようで見逃せない。カリエールという一筋縄ではいかない他者の目を獲得し、いっそうの距離をもって私的素材に向かったガレルがブラックで、何食わぬ顔の、ちくちくと皮肉な“コメディ”の方へと踏み出したかにみえるのも面白い。

 もっとも撮影監督レナート・ベルタ共々最新作『つかのまの愛人』へと引き継がれる脚本チームを得たことでいっそう注目したいのは、フェミニズムとみまがうくらいに女たちが主体的に存在し始めていることで、そこにこそガレルの映画のスリリングな広がりを見て取ることができそうだ。

 もちろん、ガレルの映画のヒロインたちはいつだってれぞれに忘れ難く存在していたけれど、いってしまえば彼女等はガレル(の分身たち)の愛/憎の眼差しの中に在って、だからみつめる人のみつめ方に縛られた存在でもあった。これに対して『パリ、恋人たちの影』では一見、自己犠牲の尽くす妻とみえるひとりも、その未来像ともいえそうな夫の嘘を黙認しつつ統御する老妻にしても、女という生き物のしたたかな大きさ、怖さをじわりと開示してみせる。そうしてさらに最新作『つかのまの愛人』では愛娘エステル演じるヒロインと、同年代の父の愛人とがいつしか共犯、共闘関係を結び、映画そのものさえもまた彼女たちのものとしてしまうのだ。私小説的映画という意味では主人公とみなされるはずの父(ガレルの分身的存在)が殆んどかすんで、彼女たちの眼差しの中で動くような逆転が生じている。

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