“児童映画”の系譜を汲む愛すべき一作 鶴岡慧子監督が挑んだ西加奈子『まく子』の映画化

荻野洋一の『まく子』評

 「子ども?」という意味不明な問いが、やぶからぼうに頭上から降ってくる。小学5年生の3学期。11歳の少年サトシが、同じ11歳の少女コズエと出会った瞬間だ。下校してきたサトシの頭上、外階段の上にコズエが、やや逆光の光を受け、クリント・イーストウッドのように仁王立ちしている。

コズエ「子ども?」
サトシ「そうだけど」
見上げるサトシ。階段を下りてくるコズエ。
コズエ「年令は?」
サトシ「11歳」
コズエ「私も11歳。ということは同じ年令の子ども?」
サトシ「そうなんじゃない…」
コズエ「私の方が背が高いね。変じゃない?」
サトシ「変じゃないよ。うちのクラスじゃ、男子よりミズキの方が背が高いし」
コズエ「赤くなってる」
サトシ「え」
コズエ「耳が、赤くなってる」

 じっさいコズエ(新音)はサトシ(山崎光)よりもはるかに背が高く、大人びている。コズエとサトシの極端な身長差こそ、この『まく子』という映画の主題的な本質だ。男の子の発育と成熟は、女の子よりもかなり遅延する。「赤くなってる」。サトシの耳を覗きこむために2人は、ほとんど接吻しそうなほどに接近するが、顔の造作についていえば、動物としての完成度がまったく違う。遠慮なくサトシに好奇心を抱くコズエに対して、サトシは畏怖の念を抱くだろう。少年の両親(須藤理彩、草なぎ剛)が何代も続く温泉旅館を営んでおり、少女の母親(つみきみほ)は新しくこの旅館に住み込みの仲居として働き始めた。つまり、サトシとコズエのあいだには親の主従関係が介在することになるが、映画を通してそんな主従の影が少年と少女の関係にちらつくことはない。ところで、女性関係にだらしない父親役を演じた草なぎ剛は、SMAP解散後、存分に持ち味を発揮し始めたように見える。

 コズエを演じる新音(にのん)は東京ガールズコレクションなどで活躍する2004年生まれのモデルで、本格的な演技の仕事は今回が初めて。コズエ役のオーディションを進めてきたスタッフも、RADWIMPSのシングル「狭心症」PVでしか彼女を見たことがなかったそうだが、「人間離れした美しさ」を体現するのは彼女しかいないと即決でキャスティングしたとのこと。ここでの「人間離れした」というのは比喩ではなくて、本当にコズエは人間離れしているのだ。映画の前半のうちに、私たち観客は次のコズエの科白を耳にして、呆れるほかはない。興ざめする人さえいるかもしれない。

「知りたい? 誰にも言ってないんだけどね。私とお母さんは、ある星から来たの」

 少年と少女の甘ずっぱい初恋の物語は、世界中の映画でなんどもなんども描かれてきた。この『まく子』もそうしたものの一本だろうと高を括って見始めたばかりの観客は、虚を突かれる思いに囚われざるを得ないが、それはサトシとしても同じこと。

サトシ「ホシ?」
コズエ「そう。土星の近くの星」
サトシ「土星?」
コズエ「うん。宇宙船に乗ってきたの。すごく遠かった」

 土星などと急に言われてしまうと、画面を見つめるこちら側の姿勢もやや軌道修正を迫られる。少年の動揺を観客にもお裾分けしたいのか、茶目っ気たっぷりな作品である。「土星の近くの星」の生命体には死の概念がなく、永遠の生を生きるそうだが、人口爆発がおこったため、死というものがあってもいいのではないかと皆で考え始めたらしい。そこで死については先輩格の地球人の死生観を研修に来たとか。ずいぶんとまた人を喰った話になってきた。『風の又三郎』の現代版というくくりではどうも収まりそうもない。

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