『THE GUILTY/ギルティ』から考える「デスクトップ・ノワール」 変容する視覚と聴覚の関係とは

「デスクトップ・ノワール」の台頭

『Search/サーチ』(C) 2018 Sony Pictures Worldwide Acquisitions Inc. All Rights Reserved.

 ここ数年、物語の全編がパソコンのデスクトップ上で展開されるという趣向の映画作品が相次いで作られ、注目を集めている。昨年はアニーシュ・チャガンティの『search/サーチ』(Searching, 2018)が話題を呼んだし、現在、劇場公開中のスティーヴン・サスコ監督の『アンフレンデッド:ダークウェブ』(Unfriended:Dark Web, 2018)、およびシリーズ前作のレヴァン・カブリアーゼ監督の『アンフレンデッド』(Unfriended, 2016)などはその代表的な作品だろう。おそらくナチョ・ビガロンドの『ブラック・ハッカー』(Open Windows, 2014)あたりから盛りあがってきたこの種の映画は、日本でもフェイクドキュメンタリーで有名な白石晃士が手掛けた全編スマートフォンのタッチスクリーン上で展開されるという演出のテレビドラマ『ミュージアム-序章-』(WOWOWにて放送, 2016)をはじめ、すでにいくつか作られている。

 筆者の友人でもある映画監督の佐々木友輔と映画ライターのnoirseは、2017年に刊行した共著『人間から遠く離れて――ザック・スナイダーと21世紀映画の旅』(トポフィル刊)で、これらの映画を「デスクトップ・ノワール」と呼び、論じている(そもそも佐々木自身も、『落ちた影/Drop Shadow』[2015]という実験的なデスクトップ映画を制作している)。こうしたデスクトップ・ノワールの台頭については、本格的に考察を加えようとすれば、佐々木とnoirseのように、それなりの分量が必要になるだろう。

『THE GUILTY/ギルティ』(c)2018 NORDISK FILM PRODUCTION A/S

 したがって、この短いコラムでは、こうした新しいレイアウトを備えた映画の登場の意味とその作品表現への具体的な表れを、これも現在、話題を呼んでいるグスタフ・モーラー監督のデンマーク映画『THE GUILTY/ギルティ』(Den skyldige, 2018)を事例に考えてみたい。あらかじめ断っておけば、もちろん『THE GUILTY/ギルティ』は厳密には佐々木たちのいうようなデスクトップ・ノワールの体裁の映画ではない(デスクトップ・ノワール作品自体についても、いずれ論じるつもりはある)。しかし、筆者の見るところ、このふたつはいま、映画が置かれている同じパラダイムのうえにあり、似たような文脈で読み解ける作品であると思われるのだ。

パソコン、スマホ的画面の浸透

 まず、大きな見積もりを示しておけば、いわゆるデスクトップ・ノワールと呼ばれるような映画の2010年代における台頭には、わたしたちの生きる現代の映像メディア環境全般の変化が深くかかわっているといえるはずだ。

 2010年代末の現在、わたしたちの日常生活にはじつにさまざまなかたちの「スクリーン」が溢れかえるように遍在している。いまから半世紀前、あるいは1世紀前、そうしたスクリーンとは、映画館に象徴される映像が投影される遮蔽幕であることがほとんどだった。もちろん、20世紀なかばから映画産業を強烈に脅かすように社会に浸透したテレビは、映画とはまた異なったしくみを持つ放送メディアだったが、最近も映像メディア史研究者の北浦寛之(名古屋大学出版会刊『テレビ成長期の日本映画―メディア間交渉のなかのドラマ―』参照)や藤木秀朗(名古屋大学出版会刊『映画観客とは何者かーメディアと社会主体の近現代史ー』参照)が明らかにしているように、それでも映画とテレビは20世紀後半をつうじて、そこで作られるコンテンツを中心に相互に強く影響を与えあいながら発展していったという経緯がある。

『アンフレンデッド:ダークウェブ』(c)2018 Universal Studios. All Rights Reserved.

 ところが、ちょうど20世紀が終わりを告げるころから、この世界には、そうした映画的なスクリーンとはまったく異質な「画面」が現れ、いまやその趨勢は前者をはるかに凌駕するまでに広がっている。いうまでもなく、コンピュータのデスクトップ、そして21世紀のいまでは、スマートフォンやタブレット型パソコンのタッチスクリーン(タッチパネル)といったデジタルデバイスのインターフェイスである。ごく当たり前のことだが、わたしたちにとってはもはや、映画館や自室のテレビのスクリーンよりも、スマホやタブレット、ノートパソコンのスクリーンを眺めている時間のほうがはるかに長い。そして、そうした新しいスクリーン=インターフェイスでは、かつて20世紀に完成した映画的なスクリーンとはかなり異なった、独自の表象システムが形作られている。そうした今日のインターフェイスやタッチパネルの示す新たな表象や知覚のしくみについては、筆者自身もここ数年、映像メディア文化論の視点からなんども論じてきている(たとえば、拙稿「 『顔』と相互包摂化する映像環境」を参照されたい)。ともあれ、こうした現状を踏まえると、画面そのものをデスクトップに模したデスクトップ・ノワール的な作品が登場してくるのはなかば必然的な流れだともいえるだろう。

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