宮台真司の『A GHOST STORY』評(後編):「存在」から「存在の記憶」へ、さらには「存在したという事実は消えないこと」へ

<社会>は不完全で醜いからこそ奇蹟をあらわす

 『ア・ゴースト~』鑑賞後の感触は『アンダー~』に似ます。調べるとデヴィッド・ロウリー監督のお気に入り。感情が働かないがゆえに任務を遂行できる存在が、豊かな感情の営みを知って感染し、感情が働く存在になった挙げ句、任務を放棄して破滅します。韓国映画ブームの出発点『シュリ』(1999)やキム・ギドク脚本『レッド・ファミリー』(2014)など、「間諜もの」には実によくある話です。

 でも観客の体験は違う。「間諜もの」は社会と社会の対立、個人主義と全体主義の対立、尊厳の在り方の対立が背景です。『アンダー~』は、そもそも<社会>がない異星人が主人公。異星人は<世界>――モノの世界=輪郭不明瞭な<森>──を生きます。因みに人間学者A・ゲーレンに従えば、本能未然的なヒトに対して、輪郭明瞭な<世界>が立ち現れるのは、<社会>(≒制度)に支えられるからです。

 「皮の蒐集」の任務を帯びた異星人が美女の「皮を被って」男を誘惑しては蒐集対象にしますが、一人の奇形男を対象にしたのが契機で、感情なき皮下存在under-the-skin(異星人)に感情への憧憬が宿ります。やがて出会った言葉を発しない優しい男に感染し、性交不可能な自分の身体に動揺、森を徘徊した挙げ句、森林警備隊の男にレイプされかけた上(性器がないから不可能)、焼殺されます。

 全ては<社会>を生きる僕らが惹起される感情を嘲笑するかの如く淡々と描かれます。「彼女」が男達を捕食する場面もそう。そこには完全がある。海で或る夫婦が溺死後、海辺で夫婦の赤子が泣き叫ぶ眼前で、夫婦を助けようとした男を撲殺し「蒐集」。赤子は放置され、異星人の任務を補完するバイク隊が「処理」します。そこにも完全がある。僕らは、感情ゆえに不完全な自らを、自覚します。

 ところが「彼女」が「言葉を発しない男」に感染して以降、レストランでケーキを食べようとして、醜く嘔吐し、男の部屋で愛に満ちた性交をしようとして果たせず、醜く動揺します。そこにあるのは「不完全」な歪みです。歪みはやがて、美女の外見をした皮膜の破れ、どす黒い液体の流出、挙げ句は黒焦げの焼殺を招きます。そう。<社会>は<世界>を曇らせ、完全を不完全へと歪めるのです。

 だからこそ異星人の視座=<世界>からの視座には、不完全な歪みである感情の営みや、それを柱とする<社会>の営みが、奇蹟として際立ちます。感情の営みは未規定で、明と暗、美と醜が、綾になっています。『トロピカル~』のような「いいとこどり」は不可能。だからこそ或る相手の或る感情の働きが珠玉の価値を帯びます。「ありそうもないもの」が、「ありそうなものの」の中で輝くのです。

 それが異星人が「<世界>から<社会>を視る眼差し」の本質です。僕らは、焼殺された異星人の眼差しに同化し、特有の時間性を生きるに至ります。「異星人という存在が消えても、不完全なものに感染した異星人が存在した事実は消えない」と。ラストでは、焼殺された烟が天に昇るのをカメラが追うと、入れ替わりに雪が舞い落ちる。定番の表現技法ではありますが、「彼女」は祝福されたのです。

完全な絶対神が不完全な<社会>を意図した理由

 なぜ、完全で全能の絶対神が、不完全な人間を作ったか。なぜ、蛇を使って人に知恵の樹の実を食べさせた(=不完全な善悪観念を身につけさせた)のか。なぜ、不完全な人間が営む不完全な社会をもたらしたのか。なぜ、全能の力を用いて、「完全さのトートロジー」を破る不完全性や未規定性を創造したのか。なぜ、不完全性や未規定性を意図したのか。ここに「ヤハウェの意図」問題があります。

 『アンダー~』はジョナサン・グレイザー監督による回答です。その回答にはユダヤ・キリスト教の問題圏を越えた拡がりと奥行きを感じます。<社会>から<世界>へと離脱し、<世界>の視座から<社会>を再帰的に眼差す時、<社会>がむしろクソだからこそ、そこに営まれる「視線の邂逅」「エロスの膨縮」の未規定性が奇蹟の輝きを帯びます。その輝きを体験できるのは<世界>の時間を生きる者だけ。

 <世界>の時間への離脱は、「水平の多視座」から「垂直の多視座」への離脱です。幽霊夫は「水平の多視座=人の時間=<社会>の時間」から「垂直の多視座=物の時間=<世界>の時間」に移行。「存在」から「存在の記憶」へ、やがて「存在したという消えない事実」に逢着し、執着を脱した。これが、「全存在は消える、だから存在に意味はない」という若者の科白を係りとした、係り結びであるのは見易い。

 <世界>と<社会>の往還をホラーというジャンルを用いて描いてきた数少ない日本の黒沢清監督の最高傑作は何でしょう。彼としては珍しくホラーの要素が皆無の『ニンゲン合格』(1999)だと思います。ラストの場面、死ぬ直前の西島秀俊が「俺は存在した?」と尋ね、役所広司が「確かに存在した」と告げます。役所広司が出演する全黒沢作品で、彼だけが一貫して<世界>の時間を生きるのでした。

 紙幅がなくなりました。「記憶が消えても、存在したという事実は消えない」。このモチーフを最先端の物理学理論を下敷きに展開したのがノーラン兄弟『インターステラー』(2014)。傑作とは言えませんが、僕らの時空連続体の不可逆時間の中で既に消失した事物が、1次元上の時空連続体の視座に対して「存在として現前する」様子が描かれます。でも僕らにはそうした現前は不要なのです。

■宮台真司
社会学者。首都大学東京教授。近著に『14歳からの社会学』(世界文化社)、『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』(幻冬舎)など。Twitter

■公開情報
『A GHOST STORY/ア・ゴースト・ストーリー』
公開中
監督:デヴィッド・ロウリー
出演:ケイシー・アフレック、ルーニー・マーラ
配給:パルコ
(c)2017 Scared Sheetless, LLC. All Rights Reserved.
公式サイト:http://www.ags-movie.jp/

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