山戸結希監督×矢田部吉彦『21世紀の女の子』対談 日本における女性監督の現状と未来

 昨年10月25日より11月3日にかけて、東京・六本木を中心に開催された第31回東京国際映画祭。大盛況のうちに閉幕した同映画祭の中でも一際異彩を放ったのが、『溺れるナイフ』の山戸結希監督が企画・プロデュースを務めた短編オムニバス映画『21世紀の女の子』だ。ファッション誌『装苑』が衣裳プロデュースを担当し、山戸監督や女優勢総勢39人もの女性陣が参加したレッドカーペットも大きな話題となった。

 リアルサウンド映画部では、本作の企画・プロデュースを務めた山戸監督と、東京国際映画祭プログラミング・ディレクターの矢田部吉彦氏の対談を行った。『21世紀の女の子』の企画の発端から、#MeToo問題や日本の女性監督の現状と未来について、大いに語り合ってもらった(取材は映画祭開幕前の2018年10月22日に実施)。

山戸「“映画女学校”を作りたいというイメージを持っていた」

矢田部吉彦(以下、矢田部):まず山戸監督にお伺いしたいのですが、『21世紀の女の子』という短編オムニバス映画を作ろうとした背景にはどのような思いがあったのでしょうか?

山戸結希(以下、山戸):背景としての想いは、いつか未来、年齢を重ねる先に、“映画女学校”を作りたいというイメージを持っていたことに起因します。映画監督としての活動をしながら、新しい映画が生まれてゆくための道筋を、もっと整理したい、と考えたことがきっかけです。そういった想いは、未来に対して、全く変わらずにある一方、実際に若手監督として活動する現在においても、何かできるアプローチが存在するのではないかと感じたことは大きな契機でした。今回の作品には、本当に驚くべきことなのですが、15人もの監督が参加してくださっています。プロジェクトの立ち上げとして、まず、監督同士の関係としての繋がりは、PFFでも同期だった加藤綾佳監督と、時間的に長くありました。ですので、彼女には真っ先にお話をお伝えさせてもらいました。そこから皆さんお一人お一人に、プロジェクトをお話してゆきました。すごく嬉しいサプライズとして、まさか1人残らず全員の方に、OKをいただけることとなり、なんと15人という、オムニバス映画として過去前例のないほどの人数となりました。そして、だからこそ、異例の、素晴らしい挑戦的短篇集が生み出されたのだと、完成して、より強く感じています。統一化されない意志のありようが示されながら、光と影を照らし合っているような、世界のありように迫る映画だと感じています。

矢田部:“映画女学校”のアイデアはいつ頃から抱いていたんですか?

山戸:アイデアやイメージ自体は、映画監督として活動する中で、自然に湧いてきた気がします。これは想田和弘監督がドキュメンタリーで扱われていたテーマでもありますが、演劇表現は、学校教育などの公共性を通して未来と結節点を作りながら、その未来を切り開かれていますよね。そうした活動に刺激を受けた面は、大いにありました。作品世界の内側だけでなく、作品製作の外側でも他者を求める姿勢と言えるでしょうか。作品が私小説的な文脈になりすぎることの弊害は、才能ある作家の末路として深刻に見ていましたので、まさに作家的内部からの要請として、外部との接続回路を、ある程度アンコントローラブルな事態になることも含めて、自由にひらける状態にしておかなければならない、とも発想します。より良い作品を作り続けるために、社会や他者との距離感を絶することは、実際には外部価値を過剰に意識するのと同じ類の危険性を伴っており、理性を働かせながら、社会との接合面を見つめてゆきたいです。社会と言った時に差すのは、政治的土着だけではなく、他者性に触れてゆくことだと考えた時に、作品づくりと両立されうるどころか、同居して然るべきキーなのだと。

矢田部:私がお話をお伺いしたのは2018年の春でしたよね。その後5月のカンヌ映画祭でも#MeToo運動など、そういった問題意識が表に出てくる中で、カンヌでもコンペティション部門に女性監督の作品がとても少ないことに対するアピールの場があって。今年やるべき企画であるし、今年でやめてはいけない企画でもあるとは思いました。そういう意味では、今の時代の流れに乗ったという見え方もされてしまうかもしれませんが、もともとあった問題意識が、たまたま#MeToo運動の流れと合致していったということなんですね。

山戸:21世紀の女の子プロジェクト自体は、昨年から始まり、矢田部さんに最初にお話をお伝えさせていただく機会が3月にあり、その時から、装苑さんにレッドカーペットをプロデュースいただければという構想を進めていました。そして、5月にカンヌのレッドカーペットが開催されました。必ずこのようになるだろうという流れが、数年前から映画界に留まらずあったので、カンヌのことも、ああ、ついにこうなったのだと、当時、とてもナチュラルに見ていた記憶があります。本当の意味でのきっかけとして、個人の体験として大きなインパクトを持っていたのが、『アゲインスト8』(原題:The Case Against 8/劇場公開時タイトル:ジェンダー・マリアージュ ~全米を揺るがした同性婚裁判~)を、2014年のレズビアン&ゲイ映画祭で鑑賞したことは、強く刺さって、表現としても残りました。同性婚裁判の裏側を追ったドキュメンタリーですが、当時、自分で権利を買い取り自主配給しようかと考えたくらい、素晴らしく感じられた作品で、LGBTQの当事者たちだけに留まらず、その周りの他者と手を取り合いながら、共に自由を獲得してきた歴史をベースにする西洋と、まず文化背景が異なるここ日本では大きな違いがありながらも、自由やフェアネスを求める姿勢そのものは、東京でも取り入れ、翻案できるヒントがあるんじゃないかと感じていました。

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