『ヴェノム』はなぜ批評家と観客の間で評価の違いが生じたのか? 『ブラックパンサー』と比較検証

『ヴェノム』なぜ批評家と観客で評価が違う?

 このヴェノムとエディの、肉体を共有した共同生活や友情は、ある種のエロティックさをも発散している。同性のキャラクター同士の関係性は、ネット上で多くのファンアート(観客による二次制作)を生み出すほど、一部の観客を楽しませることにもなった。

 だがこれは、賛否を呼びかねない作風でもあるように思える。おぞましいヴェノムを、コミカルな部分のある愛すべきキャラクターに設定したことで、原作の持っていた本来のダークさが薄れていき、既存のヒーローとそれほど差がない存在になってしまったのだ。しかしそれは、制作側があえて切り捨てた部分であるだろう。批評家の反応が悪いのは、このあたりの思い切りの悪さに起因している部分も大きいはずだ。

 しかし、これだけではまだ批評家たちの極端な態度の説明はつかないだろう。ここで例に出したいのは、先ごろ、やはり大ヒットを果たしたヒーロー映画『ブラックパンサー』(2018年)だ。カーアクションやライバルとの戦闘など、アクションや見せ場だけをとり出せば、『ヴェノム』にほぼ似通った作品である。にも関わらず、『ブラックパンサー』は「ロッテントマト」で9割以上の批評家の支持を受けているのである。これはさすがに露骨すぎる結果であるように思える。

 批評家というのは往々にして、脚本がどんなメッセージを伝えるのか、アクションにどんな意味が込められているのかというところに、敏感に反応しがちな性質を持っている。例えば、ブラックパンサーのスーツは衝撃を受けると、反動を相手に返すつくりになっているが、それはアメリカ国内で長い間迫害を受けてきたアフリカ系の人々の、耐え続けてきた歴史が反映しているように感じられる。こういう描写に比べると、同じようなものを描いても『ヴェノム』の方が軽薄に思えてしまうということは考えられる。

 では、『ヴェノム』は本当にメッセージ性が希薄なのだろうか。たしかに、エディ・ブロックが貧富の差や、悪徳企業の非人道的行為を報道する記者であり、彼がヴェノムと協力して企業の悪を退治するという内容は、あまりに類型的であるように感じてしまうし、この要素がアクションやクライマックスに向けてうまくつながっていない印象があるのも理解できる。

 しかし本作のテーマが、ヴェノムとエディの関係のような「共生」であると考えれば、作品に描かれた様々な要素はまとまりを見せるはずだ。本作に登場する大企業の経営者のように、能力の劣った者や力を持たない者を排除し、世界の人々を分断しようとする流れに対し、じつは「負け犬」であることを自認する、弱い立場のヴェノムやエディが、お互いに様々な問題を持ち、気に入らない部分を妥協しながら共闘する姿は、その流れに反していると思える。

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