『ザ・プレデター』なぜ評価が分かれる内容に? 『プレデター』シリーズの“核”となる部分から考察
それから続編はいくつか作られてきたものの、それらが第1作のインパクトに及ばなかったのは、やはりそこに、同等といえるような新しいアイディアが不足していたからのように感じられる。そもそも斬新な思いつきがあるなら、続編でなく新しい映画で描いた方が制約も少ないはずだ。その意味では本作『ザ・プレデター』もまた、シリーズを真に前進させるような衝撃作ではあり得なかった。むしろ森林や都市での戦いをそれぞれに描いた第1作、2作、もしくは『AVP2 エイリアンズVS.プレデター』(2007年)、そしてアウトローたちが共闘する『プレデターズ』(2010年)の内容を組み合わせたようなものになっている。
しかし、その様式的な描写に一種のクラシカルな魅力を感じることも確かなのだ。考えてみれば、吸血鬼やフランケンシュタイン、狼男が登場するような怪奇映画は、時代の洗礼を受けることによって、いったんは陳腐な存在になっていった後に、一種の芸術性を新たに獲得したはずだ。それは例えば、「半魚人」が登場する映画『シェイプ・オブ・ウォーター』が、ついに「アカデミー作品賞」という権威的な評価を受けたようにである。つまり「プレデター」もまた、最新のものでなくなり、その後の陳腐さを通り越して、わびさびをすら感じさせるクラシカルな存在になり始めているのではないのだろうか。いまはその過渡期にあるため、まだ観客の認識に差が生じており、そこが本作の評価が分かれる原因の一つになっているように思われる。
それでは、本作が考える『プレデター』シリーズの「核」となる部分は何なのだろうか。その理解は、今回監督を務めたシェーン・ブラックならではのものだった。彼は『プレデター』第1作で、「プレデター」に惨殺される兵士の一人として出演しており、同時期に大ヒットした『リーサル・ウェポン』シリーズの脚本を書いていた人物だ。『アイアンマン3』(2013年)や『ナイスガイズ!』(2016年)など、近年では監督としての仕事が忙しくなっている。
本作の物語は、「ルーニーズ(イカれた奴ら)」と呼ばれる、軍のはみ出し者たちが、くだらない軽口をたたきあいながら、「プレデター」やクリーチャー、そして「プレデター」の進化形である「アルティメット(究極の)・プレデター」と攻防を繰り返すという内容だ。
愛する息子を守ろうとする主人公・マッケナ(ボイド・ホルブリック)以外の「ルーニーズ」たちには、命をかけてまで強大な力を持った「プレデター」と戦闘する合理的な理由はない。そこにあるのは、『プレデター』第1作でも強調されていた、「軍の消耗品」としての意地であり、底辺の立場だからこそ持ち得た、あらゆる「力」に支配される社会や、現実に対する反抗心であろう。本作の真の主役は、シェーン・ブラックが、かつて『プレデター』第1作で演じた登場人物のように「消耗品」として死にゆく、心の根っこが善良な兵士たちなのである。
だが本作に欠けている重要な点もある。それは、“本物の「戦士」とは何か”を問うような哲学性である。『プレデター』第1作では、サングラスをかけ葉巻を吸いながら登場する、まるで大国アメリカの“傲慢さ”を体現する、シュワルツェネッガーが演じる兵士が、消耗品であることを自覚し、最終的には近代兵器ではなく、知恵と自作の道具と、自らの肉体によって、総合的に「プレデター」を打ち倒す。彼は圧倒的な装備を持った「プレデター」のような文明に頼らず、国にも頼らず、裸になって自然と同化することによって、より本質的な意味での、真の「戦士」として、「プレデター」という存在を凌駕し得た。
そこには、『地獄の黙示録』(1979年)を想起させるような哲学性すら感じさせる。『プレデター』第1作から与えられる異様な熱量には、そんな理由もあるように思えるのだ。本作はその意味で、「プレデター」という存在の可能性を使い切っていないように感じられる。不満をうったえる観客の一部もまた、そういったものを感じ取っているのかもしれない。
■小野寺系(k.onodera)
映画評論家。映画仙人を目指し、作品に合わせ様々な角度から深く映画を語る。やくざ映画上映館にひとり置き去りにされた幼少時代を持つ。Twitter/映画批評サイト
■公開情報
『ザ・プレデター』
全国公開中
監督・脚本:シェーン・ブラック
出演:ボイド・ホルブルック、トレヴァンテ・ローズ、オリヴィア・マン、トーマス・ジェーン、キーガン=マイケル・キー、ジェイコブ・トレンブレイ
配給:20世紀フォックス映画
(c)2018 Twentieth Century Fox Film Corporation
公式サイト:http://www.foxmovies-jp.com/the-predator/