菊地成孔の映画関税撤廃 第3回
菊地成孔の『シェイプ・オヴ・ウォーター』評:ヴァリネラビリティを反転し、萌えを普遍的な愛に昇華した、見事なまでの「オタクのレコンキスタ」は、本当にそれでいいのか?
「いじめられっ子顔=バリネラヴィリティ」の逆転
以上が筆者の「とうとう怪獣映画にアカデミー賞が」というシンプルヘッドに乗れない理由であるが、これは作品ではなく、作品の評価に対する批判と分析であって(評価を誘発したのは作品ではあるとしても)、以下、そうした卓外戦術(と、呼んでしまって良いと思う。その証拠にスピーチの大意を書いた)に惑わせられずに、本作の革新性や、戦略性に向き合って行くことにする。
デルトロは「自分が住みたい」とまで言い放ったフォックスサーチライトのオフィシャルマガジンの中で、エマ・ワトソン版の『美女と野獣』を、そこそこ口汚く批判している「見た目だけじゃなく心の美しさが大切だ。というテーマなのに、何でヒロインは処女の美少女で、ヒーローは野獣でありながらハンサムなんだい? だから僕は、ヒロインをモデルみたいな美しい女性にしたくなかったし、自慰させた。それがリアルだろ? 半魚人もキスで王子様なんかにしない。主人公の猫を食うけど、モンスターだからいいんだ」と、かなり無邪気に、そして発言している。
閑話休題。ワトソン版『美女と野獣』は、一見古い図式を踏んでいるように思えるが、エマ・ワトソンが、比較的深くて多い顔面の皺にCG修正を施さず、途中から『猿の惑星』のように見え始めること、「野獣」の特殊メイクが、中途半端に端正な美男子であること、魔法が解けても、やはり半端に端正な美男子であることに変わらないことから、美醜の液状化が起きる非常に啓示的かつ斬新な『美女と野獣』であり、美醜に関する古い図式性が悪だとするなら、『シェイプ・オヴ・ウォーター』の方が遥かに悪だし、デルトロの無邪気すぎる発言(独身の中年女性はおナニーが日課。はリアル)に対しては「じゃあイライザが毎朝遅刻するのは、日課のオナニーのせいということね」というギャグぐらいしか救いがない。
周到に書き込まれたであろう授賞式のスピーチも、放談であろう軽いインタビューの回答も言質となりうる。主人公イライザ(サリー・ホーキンス演)が自慰をするのは、高い確率で「それが独身中年女性のリアルだから」ではない。イライザが自慰をするのは、イライザが「モデルのような美少女」ではなく、「ついこないだまでは」と言うのが最も正しいと思われる時代感覚に沿って言えば、「虐められっ子顔の、童顔のおばさん。しかも捨て子で、声が出ない」、つまり、「気の弱いブサイク」だというバリネラビリティ(虐められやすさ/虐めの誘発力)の塊、という記号の中に落とし込まれそうになるからであり、それを一気に逆転するのが本作の全体を律する美学だからである。サリー・ホーキンスの素晴らしい演技と、デルトロの本当に素晴らしいキャラクター設定とキャスト選択センスが相まって、ついこないだまでだったら当たり前に駆動したであろうヴァリネラビリティを蹴散らす。霧散ではなく逆転させるのである。
全てを逆に
イライザはシンプルにいって、かなり積極的で蠱惑的な女性だ。最初こそ、年上の(と言っても、どちらも中年なのだけれども)ゲイの画家の掃除係としてバイトをしながら、政府の極秘研究所に勤務している。地味な女性だと思わせる。
ところがこの人、まるで日本のアニメのように胸がデカいわ、タップダンスが得意で、テレビを見ながら、同居人に見事な足さばきでダンスに誘うは(それは60年代のアメリカでは、かなり積極的にセクシャルな行為なはずだ)、前述の通り、日課のバスタブオナニーはレイテッドギリギリにハードだし、特に<怪物=彼>と恋に堕ちてからは押しの一手で、餌付けから手話による会話、音楽を聴かせて逢瀬を楽しむ、という辺りから、もう自宅に連れ込んで(まあ、解剖の危険から、彼を救出するのではあるが)、近所迷惑も何もなく、防水も何もない、古いマンションのバスルームに鍵をかけて浸水、というより、部屋を水槽化し、恥じらいも何もない思いっきりの全身全裸で水に潜り、性行為に及ぶのである(UWフェティッシュの御仁なら、彼女が怪物と抱き合うべく、水中に身を鎮める際、海女のように「すうっ、はあっ」と、大きく息を吸ってから潜るという一瞬の細かい所作に、さぞかし萌えられたろうと思う)。
さらには同僚であり親友であるオクタヴィオ・スペンサー(彼女の本作での「らくらく仕事」ぶりにはとても癒される。ものすごい簡単な役を、力まず手を抜かず、ちょうど良い仕事である)に、照れもせず、聞かれるがままにセックスの内容を手話で伝えるのである(ペニスの形状まで!)。
ジャパンクールに造詣が浅すぎる筆者は、このイライザのキャラクター設定に、どれだけ日本のアニメの影響があるのか全くわからないが、デルトロのすることだ、絶無ということはないであろう。ただ、「モデルの顔=アンリアルな美女」と仮説した場合のサリー・ホーキンスの「あまりにリアルな顔と裸体(ちゃんと崩れている)」は、前述の推測も封印するほどで、その逆転劇は凄まじい。筆者は、本作がレコンキスタなのだとしたら、テーマ(ジャンル)と受賞という関係ではなく、主人公イライザのキャラクター設定こそがそれに当たると思うし、後述するが、それはかなり戦略的に思える。
古い専門用語で恐縮だが、ツンもデレもない、まるで人格的なバックボーン(トラウマ)なんか無いかのような、押せ押せの恋と性欲隠しもせず、激情型で一本気な恋愛は、近未来の別れも最初からちゃんと想定内であり(まあそれは物語上の設定だけれども)、その上で、「私がどれだけさびしいか、あなたはわからないでしょう。私がどれだけあなたを愛しているか、あなたはわからないでしょう」という、美しく古い恋歌に合わせて慟哭するのである(相手の眼の前で。普通これ、相手のいない時にするのではないだろうか)。
それはまるで、ゲームのキャラクターである。黙ってゲーム機を操作するだけの男に対して、恋愛とセックスだけでなく、クライマックスの逃走劇まで含めて、ガンガン事を進めてくれる。そして、相貌から全裸の体型まで、異様にリアルなのだ。CGゲームに近い感覚とも言える。デルトロとオタク達(メジャーマーケット)のサイコロジーゲームは、デルトロの純真さにしか見えない感じ、によって、ネガティヴ・ジャッジがされない。筆者はここに、作為的なのかどうか測りかねるだけに、やや悪質な戦略的勝利を読み取らざるをえない。
天然の詐術
「いきなりの逆転」だけであれば、詐術だの戦術だの言わない。 それはゲーマーの天下も、オタクの天然かも知れず、 ひょっとしたら、逆転ですら無いのかもしれない。
しかし、どうしても引っかかる。前述の通り、 門切り型なキャラクター設定ならば、 イライザは気が弱いだけでなく、障害(聾啞)による劣等感、 すでに行き遅れた年齢による気後れ、などが描かれるはずだ。 デルトロは、観客を一旦そこにミスリードする。「 被差別感のアベレージを、ちょっと前に戻す」という、 このミスリードが無い限り、「逆転」のダイナミズムは生じない。
これこそが、「すでに市民権を得ているオタクという存在を、 一度近過去(映画の時代設定の話ではない)の連れ帰り、 被差別者に引き戻した上で、敢えて反転させる」という、 本作の全体を律するコンセプトがあり、 筆者が戦略的に感じてしまう雑味なのである。
時代設定が60年代初期であるということに必然性は何もない、 これは現代の話だって、19世紀の話だって、 何なら近未来の話だって十分成り立つ。 これは個人的なノスタルジーに淫することへの解放策であり、 ノスタルジア全面解放による、ジャズスタンダード、ラテン・ ポップスの輝き方は、あらゆる映画に選曲センスが問われる、 という側面が生じている現在、 間違いなく上位に値するクオリティであるが故に、「天然= 愛ですよ」という事があたかも詐術であるかのように働く。
「怪獣オタク」という存在が<まだ輝かしく、被差別的だった、 ついこの間>までに、一度、ちょっと置き直してから、 現代的に転倒してみせるという、 おそらくデルトロも意識的ではない、 見事な手品のようなトリック。蠱惑的なイライザは、 マッチョの代理人であるストリックランドをして、 パワハラでもセクハラでもない、 つまり弱者へのハラスメントではない、ガチ萌えさせた上で( 君のような子の喘ぎ声が聞きたい」 と垂涎するストリックランドの誇張のない、 きめ細やかなリアルさは、 マッチョという仇を描くデルトロのクールさを感じざるをえない) 、全くひるむことなく決然と断り、あまつさえ手話で「F/U/ C/K」とゆっくり伝えながら、睨みつけるのである。
怪物=彼。は、アマゾン川に生息する神
大アマゾンの半魚人をオリジンにしているであろう、エヴァンゲリヲンのようでも仮面ライダーのようでも、ウルトラマンのようでも、エイリアンのようでもある、つまりはクリーチャー造形としては歴史性を持ちながらも完全に成功している(何せ、ちゃんと王子や神などを思わせる気品がある!)怪物には名前がない。いかなイライザが聾唖者であろうと、仮想の名前ぐらいつけても良い筈だ。しかし怪物=彼。は、三人称以外では呼ばれない。この設定も絶妙である。
何故なら、誤解を恐れずに言えば、<彼>には、名前もないだけでなく、感情すらほとんどないのである。筆者は最後までとうとう、本作が「愛の物語」だとは、全く思えなかった。怪物がイライザを愛しているかどうか、図式的には愛し合っているに決まっている。というだけで、ヴィヴィッドな描写はない。デルトロにはおそらくできないのだ。しかし、普通の愛の描き方ができないから、異形の愛を描く、そこに何の問題があろうか?