菊地成孔の『シェイプ・オヴ・ウォーター』評:ヴァリネラビリティを反転し、萌えを普遍的な愛に昇華した、見事なまでの「オタクのレコンキスタ」は、本当にそれでいいのか?

菊地成孔の『シェイプ・オヴ・ウォーター』評

オタクに市民権を!(いつの叫びだ)

 特に監督と音楽が際立って素晴らしい本作は、ゴールデングローブ(以下GGA)と米国アカデミー(以下AA)の双方に於いて綺麗なまでに監督賞と作曲賞を受賞しているが(両賞が映画における最高権威とは全く思わないが(菊地成孔の『スリー・ビルボード』評:脱ハリウッドとしての劇作。という系譜の最新作 「関係国の人間が描く合衆国」というスタイルは定着するか?)、北米における映画産業内政治、並びに、それでも動かすことができない、政治力を超えた力のあり方を明確に示す、という点に於いて、合衆国観察という点で重要な2トップであることは間違いない)、アレクサンドル・デスプラ(56歳)が、現代の超ミッシェル・ルグラン(86歳)の位置まであと数ミリであることに関しては慣習的に本稿の最後に指摘するとして、GGAでは監督賞と作曲賞の2賞、AAではプラス作品賞と美術賞がプラスされた。

 一般的に本作は表題にあるように、レコンキスタドール(再征服者、国土奪還者=負け組の勝利)であり、コンキスタドール(征服者=勝ち組)ではないとされる。「初めて怪獣映画にアカデミー作品賞が」と感涙にむせぶ、純朴で牧歌的な批評家やファンも、「怪獣映画がアカデミー作品賞を取るとしたら、この作品以外、しばらくチャンスねえもんな」と、タカをくくる自意識そこそこ賢者たちも、結論は同じだろう。

 しかし、「マイノリティ」の意味を多層的に備え、しかも戦略的に操作している(してしまっている)本作を、筆者はシンプルなレコンキスタドールの英雄とは、にわかには思わない。もっとずっと周到、かつ、敢えて極言するならば若干の悪質ささえも感じる、見事に戦闘的で、僅差で天然のラブよりも天然のタクティクスが成功しているようにしか思えない。

 そもそも<オタクに市民権を!>なんて、一体、いつの時代の叫びだろうか?今や消費メジャーであり、スマホ肥満(肉体だけのことではない)でベッドから降りられないほどになっている者から見たら、模範的な行動家であり、敬虔な殉教者でさえある彼らは、単純に、「とっくに勝ち組」ではないか?筆者はむしろ、「なんのオタクでもない奴」「全体的に薄い奴」が、くだらない、つまらない人物として被差別者になる時代が、もうそこまで来ていると判断する。

 つまり、現代社会に於いてオタクはとっくにレコンキスタドールとして、「キモがられていた時代」を正々堂々と転覆したのである。後述するが、スピルバーグ/ルーカスも含め、何度映画界が、オタクによってレコンキスタされたか、今回が何度目なのかわからないほどなのである。

 公民権奪取から半世紀が経っても、訳もなく警官に射殺され続ける黒人やヒスパニックとは全く違う。世界各国で少しづつ同性婚が認められ始めるも、先駆者たちが次々と離婚することで、上げ下ろし効果による、薄い幻滅感の視線にさらされているLGBTとも「オタク」は、全く違うのである。

 アフロアメリカンでありながらゲイである、という揺るぎない二つの被差別ポイントに絞り込み、前回のAA作品賞を獲得した『ムーンライト』は、それが圧倒的なリアリズムを見せたシリアスで意識の高い人間ドラマ(なのに、美術のアート感が秀逸)だから、と受賞理由を説明されるだろう。この事に筆者は、いささかの違和感もない。

 しかし「とうとう怪獣なんかを好きなオタクも50代になり、愛と正義の物語によって、市民権を得たのである快挙そして男泣き」という、あまりに物分かりの良い逆転勝利のストーリーに、筆者はどうしても乗り切れないままであり、その点が、普通に振る舞っていさえすれば(ここでの「振る舞い」とは、作品そのものが持つ動き方のことで、後述する受賞スピーチのことのみではない)遥かに素直に感動したであろう本作に、一点の染みを与えているのは否めないのである。

受賞スピーチは分析に値するか?

 ギエルモ・デル・トロ(以下デルトロ)監督(53歳)は、GGAの監督賞授賞スピーチで「僕は子供の頃から怪獣しか友達がいなかった。醜い彼らだけが僕を救ってくれた」と、戯画的なまでに旧世代オタクのセンチメンタリズムを口にした。

 そして、AAの監督賞授賞スピーチでは、「私は多くの皆さんと同じ、メキシコ移民です」「映画は国境を消してくれる。世界が国境の溝を深める中、この業界だけが消してくれる」と、これまた戯画的なまでに優等生的なトランプ批判、どこを指すのか具体的にはわからないが故に効果的な国境紛争全般を批判をした。

 そして作品賞受賞スピーチでは「少年の頃、私の心を捉えたものは<外国映画>でした」という、敢えてのアメリカ映画愛(ご存知の通り、メキシコはプロレス映画以外にも、実に映画産業が盛んである)を、「e.g(例えば)」と前置きしながらも、ウィリアム・ワイラー、ダグラス・サーク、フランク・キャプラという3名の名前を出して讃え、「え? 怪獣しか友達いなかったんじゃないの? フランク・キャプラには大アマゾンの半魚人も、巨大ロボットも出てこないぞ」と、こちらが訝るよりも早く、「こないだスピルバーグに言われた。授賞したら歴代の監督たちによって造られた<大いなる遺産>の一部として仲間入りすることになる。それを忘れず、誇りに思って欲しいと。そのことをとても誇りに思う」と言い、「えー?! いきなりスピルバーグの意味は? 現行ハリウッド&ユダヤ系の権威の象徴? それとも、<UCLAかなんかの映研オタク学生上りで、ルーカスと一緒に、ジョーズやスターウォーズによって、シリアス一辺倒だったアメリカ映画にオタクの底力を見せて、見世物小屋時代の映画レコンキスタドール>のパイセン?」とこちらが二度目に訝るより早く、「この賞を、若き映画製作者たちに捧げます。世界中で新しい才能が開花しつつある。彼らにも仲間入りしてほしい」と、最近AAが推しまくっている、学生への奨学システムや教育システムへの<正式コメント>としか言いようがない、優等生的な発言で締め、もうなんか力技のようにして持って行ってしまうのであった。

 どうすかこれ、どれが本当?

デルトロが策士だとは決して言わないよ。タラに複雑な思いがありそうだ、とは言うけど

 正解は<なんとぜんぶ本当>なのである。

 BtoZ級特撮映画も好きだし、ウエルメイドの代名詞であるワイラー、サーク、キャプラの映画を「外国映画」として観て、そのエレガンスに陶酔したメキシコ移民であることも、すべて無理なく本当なんだろう(本作は、後述するデスプラのオリジナルスコアだけでなく、60年代のジャズやメキシコ系ラテンポップスの選曲が群抜きで素晴らしい。本作の実質的な主題歌である、ジャズスタンダード「どれだけ私が寂しいか知らないでしょう」を歌うカーメン・マクレエの両親はジャメイカ移民である)。

 別に珍らしいことではない。筆者やタランティーノも含めた、デルトロ世代(現在50代半ば)の属性とも言える、混乱ギリギリなまでの雑食性(それは、常に不安定で、何か二つぐらいのコンセプトの決定によって、初めて安定する)は、逆に「怪獣映画以外一切なんも見なかったし、これからも見ない」「移民としてミッドセンチュリーアメリカのエレガントに心酔した。それ以外の美学は一切ない」というシンプルなパーソナリティ(現在のオタクに近い)に、<微笑ましくも愚か>な<偏食感や硬直感>を付与しかねないほどの、「世代的に当たり前の雑食性」であり、一種の分裂である。我々はデルトロ(世代)の病理に振り回され、大いなるスリルとネクスト感を得てワクワクするか、あるいは逆に、事が非常にストレートだと思い込んで、大いに安心してしまう。

 「漫画やSFが好きな、中二病患者の夢がハリウッド=世界を変える(おとぎ話を作り尽くしたら、発達的に社会派に成る場合も)」というシンプルさならば、スピルバーグ/ルーカスの方が遥かに純度が高く、デルトロの近親憎悪的なポジションにいるのがタランティーノである事は間違いない。両者はコンテンツが違うだけで、実質はほぼ同じである(ほぼ同世代)。

 さらに、本作「唯一の悪」は、<冷戦時代の男根的なアメリカン/ソヴェータン・マッチョ>であって、デルトロがいかな「大人になっても怪獣なんか追いかけているガキ」(←こんな古臭い人間把握がまかり通る場所が今地球上のどこにあるのか? そこはおそらく、まだアメリカン・マッチョが横行する地域だけだろう)であろうとも、監督賞受賞は伊達ではなく、マッチョというものを過不足なく精緻に描いている。

 そして、その(ストリックランド。マイケル・シャノン演)相貌は、<濃いめに、良い男に整えたタランティーノ/シュワルツェネガー>としかい言いようがないのである。主人公イライザと、年齢や性的嗜好を超えた友情で結ばれている善人ジャイルズ(ゲイのイラストレーター。リチャード・ジェンキンズ演)が、臆面もなくデルトロそっくりであることと併せ、興味深い。ネタバレになるが、ラストはつまり、デルトロがタランティーノの顔面に角材をメリ込ませる。

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