加藤よしきの『シェイプ・オブ・ウォーター』評:悪役ストリックランドに漂う哀しみと狂気

加藤よしき『シェイプ・オブ・ウォーター』評

 『シェイプ・オブ・ウォーター』(17年)は、哀しくも優しい大人の童話だ。冷戦下のアメリカを舞台に、喋ることのできない女性と半魚人の恋を描く。監督はギレルモ・デル・トロ。古今東西の異形を愛する怪奇・恐怖映画界の第一人者だ。ギレルモは本作について、『大アマゾンの半魚人』(54年)から着想を得たと語っている。『大アマゾン~』は半魚人に襲われる探検隊を描いた作品だ。半魚人は人間の女性に迫るが、多くの怪物がそうであるように、人間たちによって退けられる。しかし、この映画を観た幼いギレルモは「半魚人と女性が結ばれてほしい」と思ったそうだ。そうしてできたのが本作である。こういった出自に相応しく、この映画では半魚人と人間は相思相愛となり、微笑ましい交流を重ねていく。そんな2人の恋に立ち塞がる大きな障害が、半魚人を虐待する研究所の責任者ストリックランドだ。

 ストリックランドは、本作の悪役であり、もう一人の主役でもある。暴言・暴力・人種差別を平気で行い、その行動は悪としか言いようがない。しかし、映画は彼自身を同情する余地のない絶対悪とは描かない。彼が悩み苦しむ様を丁寧に描いているのだ。家庭・社会的な肩書き・豪華な車、ストリックランドはこれらを持つ、当時のアメリカにおいて極めて“マトモ”な人物である。しかし、半魚人騒動に巻き込まれたことによって、彼の人生は大きく狂っていく。とある失敗の責任を問われ、忠誠を誓った組織から捨てられそうになるのだ。彼は危機の原因となった半魚人への怒りに取りつかれ、次第に狂気に陥っていく。社会に居場所がなくなるような恐怖に、彼の精神は耐えられなかった。どうしようもない悪人なのに、彼が心の均衡を崩していく姿には哀れみを覚えてしまう。ちなみにストリックランドを演じるのは、名優マイケル・シャノン。『レボリューショナリー・ロード/燃え尽きるまで』(08年)や『マン・オブ・スティール』(13年)で知られ、哀しみと狂気が同居する人物は彼の十八番だ。

 繰り返すが、ストリックランドは悪役であり、その行動は許しがたい。しかし、映画は彼の行動は否定しながらも、彼もまた他者に尊厳を踏みにじられている被害者として描き、同情の余地を残している。多くのおとぎ話は教訓や問題提起を内包しているもの。本作もまた然り。社会から勝手に押し付けられた“マトモ”に縛られ、果てには狂気に陥る悪役を通じて、ギレルモは観客に幾つかの疑問を提示している。もしもストリックランドが周囲の目を気にせず生きていたら? もしも社会が“マトモ”でない生き方を許容してくれたら? もしもストリックランドが怒りを半魚人ではなく、軍の上層部に向けていたら? そもそも人間社会が半魚人の意志を尊重していたら? こういったいくつもの「もしも」の答えを考えたとき、この映画が描く本当の悪が見えてくる。それは、己の意にそぐわない者、理解できない者を容赦なく切り捨てる思想、そんな思想で動く社会そのものだ。

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