24年の月日を結ぶ架け橋とは? 『リバーズ・エッジ』が映し出す、ギリギリを生きる若者たちの姿
「新しい作品が描けない今、自分の作品に新たな命が吹き込まれる事に興味がある」――これは岡崎京子による漫画『ヘルタースケルター』(2003)が、蜷川実花によって映画化された際に寄せられた岡崎自身のコメントである。交通事故で重大な後遺症を負って以来、岡崎は新作を描いてはいない。1994年に刊行された『リバーズ・エッジ』が、日本を代表する映画作家である行定勲の手によって今回映画化されたように、絶えず岡崎の作品は語られ、そして連綿と受け継がれている。
本作は原作への敬意を込め、とことん忠実に描かれているが、24年の月日が経過した2018年現在を結ぶ架け橋となるものとして、行定勲監督は、ゲリラ的なインタビュー手法を取り入れている。主演の若草ハルナを演じた二階堂ふみが、「生きていきたいと思う」と涙ながらに語ったように、山田一郎を演じた吉沢亮が、インタビュー時の言葉について「それは山田を俯瞰で見ている吉沢亮の言葉だよな」(引用:cinemacafe|【インタビュー】二階堂ふみ×吉沢亮 繊細で鈍感でエネルギッシュな青春という化け物を語る)と語ったように、彼らはそのインタビューにおいて、あてがわれた「役」と、一人の役者である本当の「自分」をないまぜにしていたという。そうすることで、1994年に生まれた『リバーズ・エッジ』のキャラクターである彼らと、2018年に生きる一若者である彼らは互いに溶けあい、時代を超えた融合体としてカメラの前に存在し得たのである。
本作はかつての映画の標準サイズであったスタンダードサイズが採用されており、確かにそこで繰り広げられる世界は奥行きが多少削がれていることもあって、「平坦な戦場」そのものに見えてくる。本作で引用されているウィリアム・ギブソンの詩の一節である「平坦な戦場で僕らが生き延びること」とは、一体どういうことなのかが、この画角によって語られる。
そんな彼らの「平坦な戦場」で、ある意外なものが彼らの接合点となる。それが一体の「死体」である。山田はいじめから助けてくれたハルナに、宝物を見せると言って死体の場所へと連れて行く。彼はこの死体を見ると勇気が出るんだ、と話す。
『リバーズ・エッジ』の直後、『ヤングロゼ』に掲載された『チワワちゃん』(1996)にも「死体」は再び姿を現わす。物語はバラバラ死体になってしまった友人チワワが誰であったかを、友人らの語りによって明らかにしようとするものであり、その死体の人間性そのものが疑問視されている。対して、『リバーズ・エッジ』の死体の正体はまったく問われることなく、何かが明らかになることを恐れるように、誰かに奪われてしまう前に、その死体は地下の奥深くへと彼らの手によって、埋葬されてしまう。