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西尾維新原作〈物語〉シリーズはなぜ抗いがたい感動がある? 評論家が『終物語』を語り尽くす

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 TVアニメ『終物語』のBlu-ray&DVD「第八巻/おうぎダーク」が、12月27日より発売されている。本作は、2009年にTVアニメ化された、西尾維新原作〈物語〉シリーズのファイナルシーズン。阿良々木暦が“何”でできているかを知る物語にして、すべての“始まり”を知る物語である『終物語』の完結編だ。忍野扇と対峙していた暦が、彼女が何者なのか、その正体を突きつける模様を描く。自らの消滅を悟りながら、いつも通りの薄笑いで言葉を紡ぎ続ける扇に、暦が最後にかける言葉とは……。

 原作、アニメ共に熱狂的なファンを獲得し続ける〈物語〉シリーズは、なぜここまで大きなコンテンツになり得たのか。リアルサウンド映画部でも執筆中の物語評論家のさやわか氏に、その魅力をアニメと文学の歴史との関係性から紐解きつつ、徹底的に論じてもらった。(編集部)

 「新房昭之監督は“アレンジメント”のアニメを製作していた印象」

ーー〈物語〉シリーズと出会ったきっかけを教えてください。

さやわか:元々『ファウスト』や『メフィスト』といった文芸雑誌や、『ファウスト』の編集長であった太田克史さんが立ち上げた講談社BOXシリーズが好きでした。西尾維新さんの小説も、『クビキリサイクル 青色サヴァンと戯言遣い』、つまり戯言シリーズから読んでいて衝撃を受けました。

ーー西尾さんが出てきた時、文芸界隈ではどのような扱いだったのでしょうか。

さやわか:あの作品って、ミステリーのカテゴリに入ると思うんですが、振り返ると西尾さんが登場する10年ほど前から“新本格ムーブメント”がありました。つまり松本清張のように「犯人が殺人を犯したのはこういう背景があった」という社会派のミステリーと、トリックが重要な本格ミステリーという2パターンを経て、「トリックを重視しつつ、古典的なミステリーのお約束を踏まえる」小説が生まれていたんですよね。ところが、そういうフィクションのお約束を意識した時代を経た結果、もはや現実には不可能なレベルの密室トリックが登場したり、名探偵と呼ばれる人が、異常なくらい明晰な頭脳を持ったヒーローのように描かれちゃうという、いってみれば漫画みたいなミステリーが次第に出てきていました。西尾さんはそのさらに後の世代に当たる方で、「別にもう漫画みたいでもいいじゃん」という前提のもと、次々とキャラが立った作品を執筆した人だと思うんですよね。『メフィスト』は新本格ミステリー以後、そうやってライトノベルと文学の接点を作り上げていったわけですが、いわば西尾さんはその決定打となった人なんです。特に、彼の書く小説は、明らかにアニメや漫画のようなものを描きながら、最終的には抗いがたい感動がある。そして、それがなぜなのか説明しにくい。だからこそ評価を受けた部分はあると思います。わかろうとするんだけど、わからない。だから、読み続けてしまうんです。そんな彼が、作家としてさらなる飛躍を目指したはずの〈物語〉シリーズは、僕の中では大きな期待から始まりました。

ーー〈物語〉シリーズ最初の作品である『化物語』は、どのように受け止めましたか。

さやわか:このシリーズも先に話した戯言シリーズと同じで、主人公の阿良々木暦くんの周りで、“怪異”という事件が起こり、そこに介入することで新たなイベントが発生していきます。「名探偵がいるせいで殺人事件が起きちゃう」というミステリーでおなじみの矛盾ですよね(笑)。こういうお約束は、ミステリーではたとえば法月倫太郎の『頼子のために』なんかで追求されてきたテーマに近いわけで、言ってみればこれを青春物語に置き換えているのが〈物語〉シリーズだと思います。つまり阿良々木くんがほかのキャラにちょっかいを出すから物語が動いてしまう、ということをテーマにしている。そこがまず面白かったですね。

ーーアニメ化されると聞いたときはどう思いました?

さやわか:西尾さんの作品は特徴的で、同音異義語を使ったり、言葉遊びが多かったり、シャレがきいてたり、やたら長ゼリフがあったりするので、そもそもアニメ化するのは、難易度が非常に高いはずだと思いました。それらの書き言葉をアニメーションとして、話し言葉のセリフにすることで、作品の世界観が成り立たなくなってしまうはずなんですよ。でも、新房昭之監督が挑戦すると聞いて、期待を抱いていました。そして実際の作品を見た時には「アニメとしてすごく新しい!」と驚きましたね。

ーー新房監督の作品については、どのような印象を持っていましたか。

さやわか:アニメの表現も変遷しているなかで、新房さんは2000年代の半ばぐらいから、はっきりと違う方向性を見せつけるようになっていました。ゼロ年代アニメって、ざっくり言えばシャフト的なものと京アニ(京都アニメーション)的なものに分かれていったと思うんです。どちらも特徴的なんですが、とりわけ新房さんって、ジブリとかがやってきたような古典的な“アニメート”を重視するもの、たとえば人物の周りをカメラが回り込んでいったり、キャラが粘土のように変形するような、運動の面白さではないやり方の代表例のようなところがあったんですね。画面があって、そこにものを配置して横から見たような画、言い換えると平面性を重視した“アレンジメント”のアニメを製作していた印象です。あと、彼は『ぱにぽにだっしゅ!』あたりから“総監督”という肩書を使用していますが、まさに彼の仕事は監督であると共に“総監督”だなと感じます。一般的なアニメ監督って、自分もいちプレイヤーであることが多いんですが、新房さんは面白い・新しい才能をちゃんと使おうという、コンダクター(指揮者)のようなところもあります。作家性がものすごく高いのに、スタッフィングも上手くて操縦もできる。そこに彼の凄さを感じますね。それは〈物語〉シリーズだけではなく、『魔法少女まどか☆マギカ』などにもいえることですが。

 また一方で新房さんは、いかにもな“アニメっぽい感覚”を絶対に捨てない。単純に言えば、尖った作風と“エロさ”や“萌えっぽい感じ”、すなわちアニメという表現の猥雑さを両立させることにプライドを持っている。それゆえに〈物語〉シリーズは、渡辺明夫さんがキャラを描いて、新房さんが総監督を務めることで、西尾維新の作風、世界観がうまく出せたのだと思います。もちろん尖った映像表現でゼロ年代アニメにおける一つの典型を作り、後進の作品にも影響を与えていますが、ただ尖っているだけではない。艶かしいアニメでもあるんです。これは新房さんが、原作の雰囲気を汲みながらも、猥雑な“アニメっぽい感覚”を削ぎ落とさずに描いたからこそだと思います。

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