『人生タクシー』は“映画”ではない? 特異な表現を生んだ、イラン社会の現実

「現実を撮ってはならない」

 監督の過去作、『オフサイド・ガールズ』では、サッカーが大好きな女の子たちが、苦心してスタジアムで試合を観戦しようと潜入を試みるという物語が描かれていた。サッカーが盛んなイランだが、女性がスタジアムの中に入って観戦することは法律違反だったのだ。

 パナヒ監督の作品は、生活者の目線から描かれる、イランの驚くべき社会状況を、私たち観客に教えてくれる。だが、そのほとんどの作品は、じつはイラン国内では、少なくとも正規のルートでは見ることができない。イランの政治体制下では、自国の政策や法律を批判的に描くだけで、当局から睨まれてしまう。

 本作で最も印象的な同乗者は、監督の姪として登場する、生意気盛りの可愛らしい小さな少女だろう。彼女は学校の課題で映画を撮ることになっていて、パナヒ監督とのやり取りのなかで、学校から提示された「上映可能な映画の条件」を、一つずつ挙げていく。「女性はスカーフを被ること」、「ネクタイをしている(西洋的な服装の)人を善人として描いてはならないこと」、「善人はイスラム教の聖人の名前にすること」、「俗悪なリアリズムを避けること」……これは、イラン映画に対する不当な検閲を意味するものでもある。

 「俗悪なリアリズムを避ける」とは、イラン社会の負の側面を記録し吹聴するなということである。姪っ子は、道端で金銭を拾いそのままネコババする少年の姿をたまたま撮影してしまう。これがつまり、「俗悪なリアリズム」と呼ばれるもので、学校で上映できない部分であろう。彼女は、「先生は現実を撮りなさいと言っておいて、本当の現実や暗くてイヤな現実は見せちゃダメって言う。私には違いが全然分からない」と困惑する。学校の意図する先にあるものは、保守的思想による「体制の維持と強化」であろう。このような条件に沿った、権力にとって都合の良い作品は、現実を無視した「政治的ファンタジー」に過ぎなくなってしまうはずだ。

「映画」に捧げられた一輪のバラ

 皮肉なのは、パナヒ監督の撮るような作品を見せたくないからといって、政府が彼を弾圧すればするほど、世界の観客はイラン政府への不信感を強め、イラン社会の閉鎖性を知ってしまうという事実である。そして、弾圧によって縛られた映像は、より権力の横暴を感じさせ、社会批判の鋭さを増していくのである。国家の評判を貶めているのは、パナヒ監督の作る作品ではなく、国家自身なのだ。

 乗客の一人は、車内に一輪のバラを残して去っていく。このバラが意味するのは、多くの映画人への感謝であり、また映画という表現そのものへの感謝であろう。本作は「映画ではない」ということになっているが、その実、映画への深い愛情に満ちている。どんな権力が、どのような方法で弾圧を加えようとも、その愛だけは絶対に奪うことはできないはずだ。

■小野寺系(k.onodera)
映画評論家。映画仙人を目指し、作品に合わせ様々な角度から深く映画を語る。やくざ映画上映館にひとり置き去りにされた幼少時代を持つ。

■リリース情報
『人生タクシー』
10月4日(水)DVD発売

価格:¥3,800+税
仕様:ディスク1枚(本編82分+特典映像)
<特典映像>
・短編映画『映画を撮ることを禁じられた映画監督の映画のような映像』(森達也監督)​
・劇場オリジナル予告編

監督・出演:ジャファル・パナヒ
発売・販売:バップ
配給:シンカ
提供:東宝東和
協力:バップ
2015年/イラン/82分/ビスタ(16:9)/5.1ch/原題:TAXI
(c)2015 Jafar Panahi Productions
公式サイト:jinsei-taxi.jp

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