『20センチュリー・ウーマン』の“ポリフォニー”が描き出す、1979年という時代
一方、1962年生まれ、17歳のジュリーは、幼少の頃からセラピストである母が主催するグループセラピーに強制的に参加させられながらも、母親も含めたそれらの女性たちをどこか冷めた目で見ている大人びた少女だ。新しい父親と脳性マヒを患う妹が暮らす家にはあまり寄り付かず、ボーイフレンドを次々と変えながら遊び歩き、夜はジェイミーの部屋をこっそり訪れ、あれやこれやと話しながら一緒のベッドで眠り、朝になると家へ帰るという生活を送っている。彼女の愛読書は、精神科医M・スコット・ペックが1978年に発表した『愛と心理療法』や、1975年に出版されベストセラーとなったジュディ・ブルームのヤングアダルト小説『キャサリンの愛の日』など。アビーとは異なり、個人主義的で内向的、政治や社会に対して冷めた考えを持つ新しい世代ーーのちに“ジェネレーションX”と呼ばれる世代の女の子だ。
プロットの細やかさ以上に、執拗な細やかさで描き出される女性たちのバックグラウンド。それが意味するものとは何なのか。そう、彼女たちは、映画が描き出す物語に奉仕する登場人物である前に、それぞれの物語を持ちながら1979年という時代を生きている“20世紀の女たち”なのだ。その意味で本作は、まさしく“ポリフォニー映画”と呼んでしかるべき、多層的な“声”を宿している。もともと、多声様式の音楽を意味する音楽用語であった“ポリフォニー”を文芸批評で用いたのは、ロシアの哲学者・思想家、ミハイル・バフチンだ。彼はかつて、ドストエフスキーの小説の特徴が、「それぞれに独立して互いに融け合うことのないあまたの声と意識、それぞれがれっきとした価値を持つ声たちによる真のポリフォニー」にあることを指摘した。作者が意図する物語やメッセージに従属した存在ではなく、それぞれの世界を持った複数の対等な意識が、各自の独立性を保ちながら、ひとつの大きな物語を浮かび上がらせること。本作の場合、それは“物語”である以上に“時代”であると言っても過言ではないだろう。それが、この映画を単なる回想映画や“ひと夏の思い出”映画に終わらない、実に非凡なものとしているのだ。
そして、多声的であると同時に、もうひとつ大事なことがある。それは、本作に登場する人々が、それぞれの価値観を持ちながらも互いに歩み寄り、相手を理解しようとしていることだ。とりわけジェイミーは、この“20世紀の女たち”のことが知りたくてしょうがない。「母は今、本当に幸せなのか?」、「アビーは何に傷ついているのか?」、「ジュリーは自分のことをどう思っているのか?」。だからこそ、彼は一生懸命彼女たちの言葉に耳を傾け、それを理解しようと努めるのだ。たとえ、それが完全には理解できないもの、あるいは理解できたと思った瞬間に消え去ってしまうものであろうとも。その意味で、映画の最後に流れる、バズコックスの「ホワイ・キャント・アイ・タッチ・イット?」は、本作の“思想”を体現する一曲と言えるだろう。乾いたビートに乗せて彼らは歌う。〈見ることも、感じることも、味わうことも、聴くこともできる。なのに、どうしてそれに触れることはできないんだ?〉と。自分とは違うから理解できないではなく、違うからこそ理解したいと思うこと。この映画が、人々の心をいつまでも掻き立てて止まないのは、そんな切実な思いを随所に宿しているからだろう。
さらにもうひとつ、忘れてはならないのは、この映画の舞台となる1979年という時代が、監督マイク・ミルズにとってのみ重要な年ではないということだ。彼は、1979年を舞台とした理由について、インタビューのなかで繰り返し、「“いま”に繋がる現代社会のスタート地点だから」と答えている。アメリカが中国との国交を回復し、イラン革命が起こり、イギリスでは先進国初の女性首相としてサッチャーが選出され、スリーマイル島の原発事故が起こり、パソコンが登場し始めた頃。それは、民主党のジミー・カーターから、“強いアメリカ”をスローガンに掲げた共和党のロナルド・レーガンへと移行する過渡期でもあった。その意味で、本作のなかに挿入されるカーター大統領のスピーチは、同じく唐突にされるドキュメンタリー映画ーーフィリップ・グラスの音楽に乗せて、70年代のアメリカの都市風景と自然景観を淡々と映し出した『コヤニスカッツィ/平衡を失った世界』(1982年)と同じくらい重要な役割を担っている。のちに「クライシス・オブ・コンフィデンス・スピーチ」(自信喪失の危機)と呼ばれる1979年7月の演説。そのなかで、彼はこう宣言する。
「国民は今や人生の意義を見出せず、国のために団結することもない。我々の多くが崇拝しているのは贅沢と消費です。しかし、確かなのは、物質や消費行動だけでは生きがいは得られない、ということです。我々は長年、人類の偉大な歩みに貢献すべく自由を追い求めてきました。今、国は歴史の岐路にある。分裂と利己主義の道を選べば、誤った“自由”にとらわれ、衰退の一途をたどるでしょう」