『ラスト・エンペラー』から『ハイ・ライズ』へーー受け継がれた“映像主義”
伝説的作家J・G・バラードの問題作『ハイ・ライズ』を映画化した本作は、予想以上に“映像主義”な映画であった。ここでいう“映像主義”とは、通常のエンターテイメント作品が映像を通してストーリーをわかりやすく観客に提供していくのに対して、映像そのものの威力とそれらを編集でさらに強めることを重視した特徴を指している。この性質のため、本作『ハイ・ライズ』は原作未読の場合、話や設定についていくのに少々苦労してしまうかもしれない。でも、この退廃的かつ魅惑的なビジュアルの連続にグイグイ引き込まれていく感覚は最近では珍しい映画体験とも言えよう。この感覚、ちょうど80年代後半から90年代に君臨していたアート系大作映画を思い起こさせてくれる。
アート系大作映画とは、例えばベルナルド・ベルトルッチがアカデミー作品賞を受賞した87年の『ラスト・エンペラー』などがそうだ。第2次世界大戦時に実在した満州国の皇帝となった愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)の数奇な生涯を、ベルトルッチ流“映像主義”をもって描いた大作で、当時の観客に対し「これこそ映画だ」とパワーを誇示した。この作品のプロデューサーだったのが、大物イギリス人プロデューサー、ジェレミー・トーマスで、もうおわかりの通り、彼が『ハイ・ライズ』のプロデューサーでもあるのだ。
ジェレミーは他にも、イギリス映画界きっての映像主義派ニコラス・ローグの『ジェラシー』に関わったのち、国境を越え、大島渚の『戦場のメリークリスマス』、ベルトルッチの『シェルタリング・スカイ』ほか多数、そしてこちらもJ・G・バラード原作であるデヴィッド・クローネンバーグの『クラッシュ』など、“映像”の歴史的傑作をいくつも生んできた怪物的プロデューサーだ。そんな彼が今回『ハイ・ライズ』をプロデューサーする際、新鋭監督のベン・ウィートリーに“映像主義”を強く志向させたことは十分に考えられうる。『ハイ・ライズ』は、もちろんバラードの小説世界の忠実なる映像化を目指した結果でもあろうが、それに加えて製作陣らの映画観が強くあったために“映像主義”を貫いたのではないか(ロマンティックな想像に過ぎない?)。
『ハイ・ライズ』では、演出においても映像表現が重視される。部屋に積まれていく中身のわからない箱、エレベーター内の合わせ鏡に映る無数の分身、ペンキで塗られていく壁と服…トム・ヒドルストン演じる医者ロバート・ラングの精神が虚ろに病んでいく様が暗示される。そもそも、舞台となるタワーマンション自体、病んだ脳のメタファーとして存在しており、幾度となく繰り返される赤い空の下にそびえ立つタワーマンションの映像は、1枚の絵画なら“狂気”という題がつきそうなものだ。
基本的には、イギリス社会に根強くある階級差別の構造を皮肉った風刺劇として語られやすい『ハイ・ライズ』だが、それと共にある精神病理の世界をより鮮やかに書き出しているのが、この映画版だろう。階級闘争の構図がたいして言及されずドラマ性が弱いこともこの説を助ける。後半では混乱したタワーマンション内のひどい有様が延々と描かれるが、それを絵空事のように見つめる虚無の視線、つまり精神科医の側こそ本質だ。変わりゆく世界から分離した彼の様子は、狂騒よりもずっと狂気じみて映る(そういえば、本作のトム・ヒドルストンは先に挙げたベルトルッチ監督『暗殺の森』のジャン=ルイ・トランティニャンによく似ている。ファシズムの渦に巻き込まれていくアイデンティティ虚ろな男の像としてかなりの部分が共通している)。
また“ロボトミー”という単語が頻出するようになるが、これは前頭葉を脳のその他の部分から切り離して精神的疾患を治療する手術で75年に廃止された精神医学上の禁忌である。本原作が書かれたのはまだロボトミーが合法であった最後の時代で、上層階の住民らは下層階の住民にこのロボトミーを施そうとするのにリアリティがあった。ただこれは過ぎ去った時代に限定されたものでない。いつの時代でも、“個人”が尊厳を求める行為が“集団”内で病理として扱われる恐怖はある。社会の階級差別の問題を超えて、人間が“集団”で存在する生物であるがゆえの狂気だ。