思わぬ相手に届いた“手紙“は、物語をどう動かす?『すれ違いのダイアリーズ』『若葉のころ』評

 同姓同名の別人のもとに届いてしまった手紙……いわゆる“誤配”をきっかけに謎めいたドラマがスタートする、岩井俊二監督の映画『Love Letter』(1995年)を例に挙げるまでもなく、「宛名とは異なる人物が読んでしまった手紙」というのは、古今東西、映画のなかで繰り返し描かれてきたモチーフだ。盗み読まれた手紙、あるいは思わぬ相手から届いた返信など、そのバリエーションは枚挙にいとまない。そして今、その変奏とも言うべき“メール”や“日記”を重要なモチーフとしたアジア映画が2本、好評のうちに公開されている。ひとつは5月28日公開された台湾映画『若葉のころ』。そしてもうひとつは、5月14日に公開されて以降、ジワジワと人気を集めているタイ映画『すれ違いのダイアリーズ』だ。(※メイン写真は『若葉のころ』より)

『若葉のころ』より

 「若葉のころ」の邦題で知られるビージーズの情感溢れるメロディに乗せて、母と娘、それぞれの初恋を、痛みや喪失とともに鮮やかに描き出す『若葉のころ』。その主人公であるバイ(ルゥルゥ・チェン)は、離婚した母と祖母の3人で暮らす、17歳の女子高生だ。しかし、ある日、彼女の母であるワン(アリッサ・チア)が交通事故に遭い、意識不明の重体となってしまう。悲しみに暮れたバイは、母のパソコンから、母が初恋相手に宛てた未送信のメールを発見する。そこには、1982年、自分と同じ17歳だったころの母の思い出が、切々と綴られていた。ほのかな恋心、親友の裏切り、父親の新しい家庭、そして意識の戻らない母親。行き場の無い感情に苦しむバイは、あるときそのメールを母親の初恋相手に送信してしまうのだった。以降、母の初恋相手である中年男性と、母になり済ました娘の奇妙なメールのやり取りがスタートする。

 母と娘、1982年と2013年という時間を超えてシンクロする、それぞれの初恋。「成就しなかった恋」、あるいは「投函されることのなかった恋文」を扱った映画としては、同じく台湾映画である『海角七号 君想う、国境の南』(2008年)が思い起こされる。しかし、本作がそれと異なるのは、ある種の懐かしさや郷愁の感情以上に、17歳という年齢そのものを……いつの時代も変わることのない17歳という年齢の普遍的なきらめきを、その脆さや不安定さとともに活写している点にあるのだった。急に降りだした雨の中、嬌声を上げて駆けまわる女子高生たち。学校の屋上から、理由なくレコードを飛ばし合う男子高生たち。それらの叙情的に美しい映像が喚起するのは、若者たちの神々しいまでの美しさなのだ。いわゆるラブストーリーのようでいて、その実、恋愛すらその遠景と化してしまうような17歳……文字通り“若葉のころ”の瑞々しい輝き。この映画は、プロットの面白さ以上に、二度とは戻れぬ17歳という日々を、情感溢れる美しいショットで捉えきった映画として観る者すべての心に押し迫ってくる、実に忘れがたい一本となっているのだ。

『すれ違いのダイアリーズ』より

 一方、本国タイの首都バンコクだけで約100万人を動員したという映画『すれ違いのダイアリーズ』のモチーフとなっているのは、そのタイトル通り“日記”である。そもそも他人が読むことを想定してない日記を、偶然読んでしまった男の物語。そのプロットは、思いのほか技巧的なものとなっている。タイの田舎にある水上学校というひとつの場所を舞台としながらも、ふたつの時系列を行き来しながら並行して描き出される物語。ひとつは、水上学校に赴任した青年教師、ソーン(ビー)の物語であり、もうひとつはその一年前、同じく水上学校に赴任した女教師、エーン(プローイ)の物語である。通常の小学校とはまったく勝手が異なる水上学校で、右も左もわからぬまま、教師として奮闘するエーン。一緒に赴任した同僚の女教師は、やがて音をあげ水上学校を去り、たったひとりの教師となってしまったエーンは、自らの孤独を紛らわすように、思いのたけを日記に綴り始める。そして一年後、エーンの後任として入れ違いで水上学校にやって来たソーンは、ある日、黒板の上に隠されたエーンの日記を発見する。自分と同じように慣れない環境に戸惑いながら、日々懸命に過ごしてきたエーンの日記。次第に見ず知らずのエーンに心を寄せるようになったソーンは、やがて日記の残りのページに自らの日々と思いを書き記すようになる。そして、さらに一年後、水上学校を去ることになったソーンは、自らが書き足した日記を、同じく黒板の上にそっと置いておくのだった。奇しくも彼の後任として水上学校に舞い戻って来たソーンは、かつて自分が置き忘れた日記を、見ず知らずの誰かによって新たなページが書き加えられた日記を発見する。

 本来は時間軸の異なるソーンとエーンの水上学校での日々を、同時進行的に描き出してゆく本作。この映画の面白いところは、彼らが最後の最後まで、一度も会ったことのない見ず知らずの他人同士である点だ。読むはずのないものを読んでしまったことによって、その人の存在をだんだんと近しく感じるようになること。それは、さまざまな形で描き出される“手紙”映画の、ひとつ大きな醍醐味と言えるだろう。気持ちを吐露した生身の文章を通じて、その書き手に思いを馳せること。ここにはいない誰かのことを思うことは、いつだって美しく尊いものである。タイの美しい風景の中で、次第に高まりゆく思い。とりわけ、ソーンが休日にひとり訪れた「コムローイ祭り」……人々がそれぞれの思いを託したランタンを、いっせいに夜空に放つ祭典は、息をのむほど幻想的に美しい。いわゆる惚れた腫れたのラブストーリーとはやや趣が異なるものの、「ここにはいない誰かを思うこと」という意味では、ある意味ラブストーリーの王道とも言える叙情的な物語が、この映画のなかで展開されてゆくのだ。

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