映画とは命がけの娯楽であるーー女優・大塚シノブが役者目線で『下衆の愛』を観る

大塚シノブ『下衆の愛』レビュー

 ここ最近、連日のように“下衆”という言葉を聞いている気がするが、この映画は最高に“下衆”である。どん底のインディーズフィルムシーンを舞台に、映画を撮るという夢を諦めきれないアラフォー“下衆”監督と、そこに群がる“下衆”たち。「日本っぽい四畳半映画を撮りたい」。その内田英治監督の言葉そのもの、まさに四畳半という表現にふさわしく、またその中でありあまるエネルギーを爆発させたような、勢いある作品である。監督、プロデューサー、俳優、脚本家とは名ばかりの、映画業界ではまさしく底辺と呼ばれるであろう、そして生き方そのものが下衆である人間たち。ただ、何が『下衆の愛』の愛かというと、みんながそれほどまでに映画を愛しているということ。「一回味わうと抜け出せないぞ。シャブよりもタチ悪いからな、映画わよ」「映画っていう、クソみたいな女にハマったようなもんだろ」という、劇中の台詞がある。それほどまでに映画というものは人々を魅了し、人生までもを狂わせる。

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 ここに出てくる登場人物は皆、滅茶苦茶だ。テツオ(渋川清彦)は、表向きは映画監督だがその実態は、映画祭での受賞経験だけが自慢の、女優を自宅に連れ込み自堕落な生活を送る、40歳を目前にしたパラサイトニート。自らのハメ撮りで生計を立て、テツオに密かに想いを寄せる、助監督マモル(細田善彦)。「脱ぎと動物」にこだわり、時代に媚びようとする団塊世代のプロデューサー貴田(でんでん)。枕営業にすべてをかける売れない女優・響子(内田慈)。そして才能溢れる新人女優・ミナミ(岡野真也)は、成功と引き換えに自分を崩壊させていく。

 下衆であろうとなかろうと、監督・プロデューサーという名前のつく人物の元には、その僅かでも可能性のある幹にしがみつこうと、俳優やら脚本家やらが群がって来る。確かにこの世界は、人間関係で成り立っていることも否めない。ただ、そういった媚びの姿勢から、いい仕事に繋がるのかというと、そこは疑問である。この映画に描かれているすべては、おそらく一般の人々のこの業界に対するパブリックイメージや、憶測である反面、底辺や水面下ではその想いを利用する者もいて、ありえないことではないのかもしれない。

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 私もこれまで日本含めアジア地域で、多少、芸能という業界に身を置いてきたが、正直、私自身がこのような状況に直面したり、目にしたことは今までない。幸運なのか、あたりまえなのかはよく分からない。それは事務所のプロテクトのおかげであり、自分でもそういう場所には近づかないと心掛けているからかもしれない。ただ、以前プライベートで、芸能プロのマネージャーだという子とたまたま知り合い、相談を持ちかけられたことがある。彼女自身の見聞きした話は、まさにこの映画のような下衆な内容で、会社の実態とその事務所のタレントについてだった。噂の域でしか聞いたことがなかった私は、こんな話が現実にあるのだと驚いた。ただし、その事務所は聞いたこともない無名事務所で、タレント自体も無名な人だった。

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