サミュエル・フラー監督が現代社会に伝えるメッセージーー“ハリウッドの異端児”の作品を振り返る
『サミュエル・フラー自伝 わたしはいかに書き、闘い、映画を作ってきたか』の出版を記念して、サミュエル・フラーの作品群がユーロスペース(東京・渋谷)で2月20日より連続上映される。本稿では、フラーの作品が持つ面白さを紐解き、より深く連続上映を楽しむためのコツを呈示できればと思う。
フラーは、1912年にマサチューセッツ州ウースターで生まれた映画監督だ。映画監督として作品を作るまでに、新聞の売り子、新聞社の記者、パルプ小説家、脚本家など、さまざまな仕事を経験した苦労人である。さらに、第二次世界大戦中は一兵士として北アフリカやヨーロッパ各地を転戦するなど、他の映画監督にはあまり見られない経歴も持つ。
そんなフラーには、多くの映画関係者がリスペクトを捧げている。第37回ぴあフィルムフェスティバルでフラーの特集が組まれた際は、黒沢清監督、石井岳龍監督、青山真治監督らがコメントを寄せ、ジャン=リュック・ゴダール、ヴィム・ヴェンダース、アキ・カウリスマキなどは、自らの作品に出演させることで敬意を示した。こうした熱狂的なファンの存在が自伝の出版に繋がり、今回の連続上映という形になったのは言うまでもないが、ここまで多くの人を夢中にさせるフラーの作風とはいったいどんなものなのか?
フラーの名言に、「映画は戦場のようなものだ。映画の中には愛があり...憎しみがあり...アクションがあり...暴力がある。そして死も。つまり“感動(emotion)”だ」というのがある。これは、ゴダールの映画『気狂いピエロ』に本人役で出演したときに言ったセリフだが、フラーの作風をそのまま表している。戦争、犯罪、西部劇、アクションなど、これまで多くの映画を作ってきたフラーは、一貫してエモーションそのものを表現してきたということだ。また、それを可能にする大胆な演出と編集も躍動感に満ちあふれている。登場人物に細かい心理描写を語らせるのではなく、ひとつひとつの場面で感覚的に理解させる快活さも際立つ。こうした側面が証明するのは、見ているだけでも楽しめる高い娯楽性をフラーの作品は備えているということ。だがフラーは、そこに鋭い時事性もくわえてみせる。新聞記者だった過去がそうさせるのか、フラーの作品にはジャーナリスティックな側面がある。娯楽性と時事性を高いレベルで共立させたフラーの作品は、いま観ても驚きと興奮をもたらしてくれる。
その魅力がもっとも表れている作品は、1963年の『ショック集団』だろう。この映画は、性的倒錯者を装って精神病院に潜入した新聞記者のジョニーが、平常を失い発狂するまでの過程を描いた傑作だ。『サミュエル・フラー自伝』によると、劇中に出てくる精神病院はアメリカのメタファーで、精神障がい、人種差別主義、愛国心、核戦争、性的倒錯といったテーマを扱っているそうだ。そして、『ショック集団』はアメリカという国が抱える病にメスを入れる作品とも述べている。確かに、閉鎖的空間で狂気に陥っていくジョニーの姿は、“アメリカが抱える問題に侵されていく者”と解釈できる。
また、『ショック集団』の問題提起が現在も切実に響くのは、恐ろしくもある。なぜなら、公開から53年近く経っても、その問題は未だ解消されていないということだからだ。先に書いたテーマに関するニュースは、いまでも世界中から届けられる。先日も、ビヨンセがNFLの第50回スーパーボウルで披露したパフォーマンスに“人種差別だ”と抗議する動きがあるというニュースが報じられたばかりだ(参考:「ビヨンセ、スーパー・ボウルでの政治的パフォーマンスを受けて抗議行動が実施されることに」)。しかし、ビヨンセのパフォーマンスは差別に対するプロテストであり、それを差別する側に向けられた“人種差別”とするのは詭弁である。こうしたことがある限り、フラーの作品が持つ社会的メッセージはまだまだ必要かもしれない。ちなみに『ショック集団』は、先述した連続上映でも観られるので、ぜひチェックしてほしい。