宮台真司の月刊映画時評 第4回(後編)
宮台真司の『アレノ』『起終点駅 ターミナル』評: 潜在的第三者についての敏感さが失われている
第三者の気配を逃した『アレノ』
そんなことを考える機会を与えてくれる、性愛関係がモチーフになった新作があります。エミール・ゾラの『テレーズ・ラカン』を原作に翻案した『アレノ』(11月21日公開)と、桜木紫乃の同名小説を原作とした『起終点駅 ターミナル』(11月7日公開)です。結論から言うと、僕は、前者には否定的で、後者には肯定的な印象を抱きます。
『アレノ』は夫と妻とその愛人からなる三者関係が描きます。三人は原作と違って幼なじみですが、妻と愛人が情欲の虜となり、船遊び中の転覆を装って夫の殺害を企てるが、死体があがらない。不安と罪の意識で夫が亡霊のように蘇り、二人の日常を破壊していく――という話になっています。この物語の根幹も、原作と根本的に違っています。
旧知の映画プロデューサー越川道夫さんが監督デビュー作でこの原作を選んだのは慧眼ですが、原作を読み込めていない。原作では、死体が見付かって事件が一件落着した後、晴れて妻と愛人が結婚してみると、なぜか熱情が覚めていて、絶えず何かに脅かされるようになる。でも、罪の意識によるものではないーーそこがゾラのチャレンジです。
ところが映画では、犯罪の露呈への恐れと、それに伴う罪意識が、妻と愛人を脅かします。罪意識ゆえに、夫の亡霊が出現します。こうした設定は原作の世界観を毀損しているでしょう。原作では、妻と愛人の二者関係は、夫も含めた潜在的三者関係という安定性をベースにしており、その上に愛や情欲が生じているという設定になっています。
だからこそ夫殺し直前の段階では二人が盛り上がるのですが、実際に殺してしまうと、二者関係の基盤にあった潜在的三者関係が崩れ、二人の関係性が突如として無定形な、名状しがたいものに変質する。その変質をもたらす「不在」が「幽霊」という比喩で表現されます。罪の意識の表れとして亡霊が出てくるというのは、時代錯誤の勘違いです。
その点、妻役(山田真歩)の演技にも疑問符が付く。夫の気配が感じられたから愛人への激しい情欲が生じていたのであり、殺害した後に苦しむのも罪の意識からではなく、夫の気配が消えたからです。映画には夫の幽霊が出てくる頻度が高いけど、彼女が仰天しないのは論理的に気配が問題だからに決まってる。なのにそれが演技で示されません。
なぜ仰天しないのかを、役者と監督が議論して、潜在的三者関係についての理解に到るべきでした。そうした演出や演技がないので、長尺の性交描写も陰惨です。『うつせみ』(2006年日本公開)で潜在的三者関係を見事に描いたキム・ギドクや、性交は恥ずかしいという意識のある黒沢清監督が描いたら、どうだったか、と考えてしまいました。
本作に限らず、ベッドシーンについては、今はインターネットで過激なアダルト映像に簡単に見られる時代なので、演出目標をしっかり立てなければいけません。本作で言うならば「気配」の演出です。魅力的な原作なのに惜しく感じます。原作にない幼馴染みという設定なのだから、「気配」を演出するとっかかりが山のようにあったはずです。
何より「夫がいなくなれば愛人も輝きを失う」という事実とその理由が描かれなければなりません。人間関係に対する深い洞察があれば、原作の大きな魅力を活かせるはず。この映画だと、夫が幽霊として何度も出てくるので、罪の意識がなせるワザというだけならまだしも、「往生際の悪いシツコイ男だな」という印象にさえなってしまいます。