菊地成孔の欧米休憩タイム〜アルファヴェットを使わない国々の映画批評〜 第2回(前編)

日本のノワール映画は“エグいジャパンクール”ーー菊地成孔が『木屋町 DARUMA』を読み解く

ノワール映画もジャパンクール

 今回、取り上げる作品の一作目『木屋町 DARUMA』に関して、最初に本作の大きな構造を俯瞰すると、この物語は、清流と言って良い、綺麗な川の流れる木屋町という京都の街の裏側にさえ、底辺の世界があって、更にそこには突出して凄まじいキャラクターがいて、、、、という異形のヤクザ映画で、主人公たちは最終的にその川に殺され落ちて浄化されていく……という構造になっています。この川はガンジス川と同じで、いろいろな汚れや悲惨な人生も飲み込んで流れていくもので、川による浄化。は、この作品の重要なモチーフだと思います。僕はあまり京都に詳しくはないので、実際の木屋町の様子はわからないのですが、映像を観る限りは素敵な観光の街という印象です。

 つまり本作は、典型的な、しかし、一般映画界では数少なくなってしまった日本のノワール映画です。単純にヤクザ映画というより、社会の底辺にある黒い世界を描いた物ですが、日本には「Vシネ」という、一種の特別枠があるし『仁義なき戦い』といったクラシックまで持ち出さずとも、最近でも『龍が如く』『ミナミの帝王』のような、アイコン的作品もあるので、一種のジャンル・カルチャーですよね。好きな人は好き。といった。

 とはいえ本作は「それモンの好きモン集合」というだけの、平均的な志の、つまりマーケット限定映画ではない。よしんば、原作者が、よしんば監督が、よしんば映画全体がそのつもりだとしても、本作全体の志はそれを逸脱しています。

 「異形とはいえヤクザ映画」というのも本作の説明としては決して間違っていませんが、そこにもう一層、別次元が加わっています。

 それは、四谷怪談やら近松門左衛門あたりをオリジンとする「日本のエグさの伝統」と言う事が出来るでしょう。これは必ず「やりすぎ」と「(故に?)空虚」といった属性を持っていて、一種のジャパンクールとも言えるかもしれない。考え方次第ですが、例えばJホラーなども「やりすぎ」と「空虚」は基底部にしっかり根付いているように思えます。

 ギャングスターの映画でも、ラブストーリーにしても、日・韓・米・欧ではぜんぜん違う。今回、後編で取り上げる韓国映画の『無頼漢 渇いた罪』は、完全な韓国ノワールですが、R指定にも関わらずカンヌ国際映画祭、しかもどちらかというとアートフィルム対象である「ある視点」に出品されているくらいだから、もう、欧州が認めるアートフィルムな訳ですよね。

 それに対して、『木屋町 DARUMA』は前述の「エグいジャパンクール」という意味では、かなり凄まじく、「やりすぎ」も「空虚」も、ガッツリ入っています。

 日本人というのはもともと、外見はあまりえげつなくない人たちですよね。旅行で東南アジアのリゾートとかに行って楽しく遊ぼうとすると、ゲトーがあったりスラムがあったりして、そこまでいかなくとも、えげつない物売りや物乞いがあって、OLさんが震え上がっちゃう。

 引きこもりだの戦争法案だの、なんだかんだ言ったって、日本はまだまだ清潔だし治安もいいですし、人々は優しく、我慢強く、事を荒立てないようにはんなりとしている。一方で韓国だと、普通にソウルを歩いていても、昔の日本のように怖い人がいる感じで、要するに闇社会というのが身近にあるんですね。米軍が都心部にあるかないか?というのは大きいと思います。

 とはいえ日本にも当然闇社会というのはある。ただ、アンダーグラウンドに潜行してしまって、東京ではほとんど見えないくらいになっている。僕は歌舞伎町に11年住んでいて、どちらかというと夜中に歩き回るタイプで、観光地とかセーフティな所にはあまり行かない生活をしていましたが、任侠の方々に真っ向から遭遇、接触した経験は11年間で5〜6回だったと思います。これがアムステルダムやハンブルグの歓楽街なら、もっと頻繁に会うと思うんですよ。日本は、平和で治安が良い。「平和」と「治安」の定義はシンプルではないとはいえ。

 だからこそこういう、ヤクザモノ、しかもゲテモノぎりぎりの素材を扱うノワールを描こうとすると、力が入りすぎてしまうのでしょう。一種の自虐性も含めて、とにかくやりすぎてしまう。要するに「リアルじゃない」訳です。古い言葉ですが、パロディにどんどん近づいて行く。

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