『ファンタスティック・フォー』と『クロニクル』の奇妙な符合ーートランク監督の作家性を読む
この映画をめぐっては酷評ばかりが渦巻いている。北米では今年の夏興行の目玉となるはずが、公開直前に投下された監督の恨み節ともとれる発言によって波紋が広がり、結果的に米興収は6000万ドルに届かない結果となった(ちなみに製作費は1億2000万ドルほどと見られている)。だが、日本での劇場公開を目前に控えた今、誰もが酷評など聞き飽きている頃かと思う。なので、ここでは本作を酷評することはしない(と同時に賛美もしない)。
ご存知の通り、マーベル・コミックの人気シリーズ「ファンタスティック・フォー」が映画化されるのは今世紀に入って二度目。2005年と2007年に製作、公開されたバージョンでは4人の大人たちが主演を担った。一方、2015年版ではこの年齢がグッと引き下げられ、言わばジョシュ・トランク監督が前作『クロニクル』(2012年)で登場させたような青年たちをメインに据えた流れとなっている。
意外と言っては失礼かもしれないが、冒頭のプロローグはなかなかグッとくる仕上がりだ。主人公(『セッション』のマイルズ・テラー)がまだ小学生だった頃のエピソード。どこか『遠い空の向こうに』(1999年)を思わせるような田舎町の少年発明家の日常風景は、オーソドックスな描き方ではあるものの、これからの展開に多少なりとも期待を持たせる手堅いテイクオフとなっている。
注目したいのは、少年が将来の夢を語る際、その言葉に耳を傾ける大人がそこには一人もいないことだ。そんな逆境の中で地道に努力を続けると、数年後、別の大人がやさしく声をかけてくる。高校生となった彼は特殊な財団へ招聘され、仲間と共に研究に明け暮れることに。が、ひとたび彼らが目を見張るような研究結果を出すと、大人達はその成果を我がものにしようとする――。
面白いことに、紅一点のケイト・マーラが「パターン」という言葉を口にするが、その言葉は本作の構造を正確に言い当てているのかもしれない。つまり、このストーリーそのものが、好きな分野に情熱を注ぐ若者たちと、彼らを利用しようとする大人たちという対立軸を打ち立て、「枠にはめる」「抗う」というパターンを繰り返すことで呼吸を重ねているのだ。
そういうジョシュ・トランク監督自身もまた、長編二作目となる本作がハリウッド超大作としての枠にはまるのを逃れようとするかのように、次々と「らしからぬ」展開で本作の色調を塗り替えていく。
思えば、その冒頭、少年が自宅ガレージで作り上げるささやかな実験装置こそ、トランク監督にとって低予算でやりたいことの全てを注ぎ込んだ映画『クロニクル』そのものだったのだろう。やがて彼がスタジオ超大作の監督に抜擢され、慣れない現場でとことん“もがく”ことになるが、その流れもまた、本作『ファンタスティック・フォー』の主人公たちが辿る道程とにわかに一致するものがある。