宮台真司の月刊映画時評 第2回(後編)

宮台真司『ドローン・オブ・ウォー』評:テクノロジー使用がもたらす人倫破壊に対する、強力なる人倫の擁護

言語による錯覚が非人道性の根源

 前編では、ヒトが言葉(正確には概念言語)を使うようになったせいで、ミソもクソも一緒にできるので、例えば全てを敵のせいにしたりできるようになって、「互いのメンツが立つ手打ち」で収めることをせず、ジョノサイド(全面殺戮)を伴う戦争をするようになったのだ、という話をいたしました。そうした観点から見れば、クリント・イーストウッドの硫黄島二部作、『父親たちの星条旗』(2006年)と『硫黄島からの手紙』(同年)の素晴らしさが際立つように思います。(前編:宮台真司の『野火』『日本のいちばん長い日』評:戦争を描いた非戦争映画が伝えるもの

 この二部作は必ず両方を見なければなりません。そうすれば、アメリカの兵隊にも、日本の兵隊にも、同型のリアリティ──例えば「敵味方図式」──があり、どちらにも完全な共感可能性をもたらす映画を作れるという当たり前のことが、今さらながら分かります。実際、イーストウッドの基本的構えは「近いものしか信じない」。だから「国家のため」という“言葉”を信じません。むろんここでいう国家とは、20世紀に人口が膨れあがった、「顔が見える範囲を大幅に超えた」国民国家のことです。

 僕たちが概念言語を手にしたのは四万年余り前。概念言語を使うようになるまで、ヒトは、近しきもののためにしか戦えませんでした。ところが概念言語を手にした結果、顔が見えない広大な範囲の人々を、「国民はみんな仲間だから守らなきゃいけない」という具合に動員できるようになりました。ちなみにイーストウッドは保守ではなく右翼。「社会の複雑性は理性を超える」という主知主義ではなく、「言葉には騙されないぞ、近接性に由来する情念以外は信じないぞ」という主意主義です。だから「国家のため」を絶対に信じません。

 この二部作は一見すると戦争映画ですが、国家規模の「敵味方図式」を用いた動員はデタラメで、「国家の英雄」などという発想も所詮は妄想に過ぎないと、切って捨てます。イーストウッドは、「故郷で待つ家族を守るためにこそ戦う」という発想も、結局は国家による非自明的な刷り込みで、デタラメだとします。彼によれば、戦場で働く持続可能な強い動機づけは、近接的な──つまり近くにいる──仲間たちを守る、仲間たちを見捨てないぞ、というものだけだ、と断言します。

技術による近接性破壊と非人道性

『ドローン・オブ・ウォー』より

 それを念頭に、アンドリュー・ニコル監督の『ドローン・オブ・ウォー』(10月1日公開)を論じます。実は同監督『ガタカ』(1997年)僕にとって生涯ベスト1と言える作品で、十回以上は観ています。『ドローン・オブ・ウォー』で使われる諸モチーフは100%『ガタカ』と同じです。先に言っておくと、ベスト1の『ガタカ』を100点とすると、『ドローン・オブ・ウォー』は60点ほどでしょうか。とはいえ、『ガタカ』で描かれた重要なモチーフを改めて痛切に思い出すことができます。

 それは何か。冒頭で取り上げたイーストウッド監督の「概念言語がもたらす錯覚こそ、非人道性の根源」という構えとシンクロします。ニコル監督は『ガタカ』と『ドローン・オブ・ウォー』など複数の作品を通じて「テクノロジーによる近接性の破壊こそ、非人道性の根源」という構えを反復します。『ガタカ』が描くのは、遺伝子認証システムが反人道的に機能する近未来で、そこでは生まれながらにして全方面で優れた“適格者”と欠陥のある“非適格者”が遺伝子解析を通じて仕分けられ、公然と社会的差別が行われます。

 そんな社会で、劣等な遺伝子を持つ主人公が、極めて優等な遺伝子を持つ別人になりすまし、クソな地球を逃れて宇宙に出ようとします。主人公を『ドローン・オブ・ウォー』と同じイーサン・ホークが演じ、完全無欠の遺伝子を持つ男をジュード・ロウが演じるという配役の妙。最後の最後、宇宙ロケット搭乗のセキュリティーゲイトで、係官が主人公の偽装に気づきながらも見逃します。係官はさり気なく主人公の本名を呼んで送り出すのですが、これが日本語字幕ではフォローされておらず、字幕作成者の能力を疑わせます。

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