『テッド2』お下劣ギャグと人権問題の意外な関係とは? 過激な表現の意図を読む

『テッド2』お下劣と人権の関係性は?

 外見はかわいいクマのぬいぐるみ、中身は大麻を吸いまくり下ネタを連発する中年おやじというキャラクター、テッドが劇場に帰って来た。とくに日本で『テッド2』は、前作を超える出足で観客を集め、人気の健在ぶりを証明している。アメリカン・コメディー映画は当たらないと言われ、ヒット作であっても劇場公開されることが少ない日本で「テッド」が予想外の成功を収めるのは、ゆるキャラなどマスコット文化が根付く土壌のおかげだろうか。本作でも、困り顔の切ない表情や、燕尾服を着てフレッド・アステア風のダンスを踊ったりと、前作より強調されたキュートさは、観客の心をつかむ。そして同時に、お下劣ギャグや危険なネタも前作以上にパワーアップしている。

 それにしても、なぜこんなにも下品かつ危険なジョークに満ちているのか疑問に思う観客も多いだろう。 今回はその背景や、意外と深い作品のテーマを追求することで、『テッド2』の魅力をより明らかにしていきたい。

どうしてここまでお下劣なのか

 テッドを創造し、自らテッドの声、そしてモーション・キャプチャーで動きまで演じるのが、多才なセス・マクファーレン監督だ。もともとオタクなアニメーション作家であり、その面白い性格から、コメディアンや俳優としても活躍し、アカデミー賞の司会に抜擢された際は、まさにテッドと同じような調子で差別的なネタや、芸能人のタブーを笑いものにする過激なギャグを連発したため、一部から批難を浴びてもいる。

 そんな彼が制作し脚本を書いたTVアニメーション「ファミリー・ガイ」が、『テッド』の過激ギャグの原点だ。同じくフォックス放送で長年放送されているブラックなファミリー・コメディー、「ザ・シンプソンズ」と同じ路線だが、その下らなさと過激さ、下品さは、「ザ・シンプソンズ」や「サウスパーク」以上である。この作品のキャラクター達の多くも、マクファーレン自身が声で演じている。

 「ファミリー・ガイ」は、 例えば、家族みんながリビングで延々と嘔吐し続けるだけの様子を、数分間流し続ける場面があったり、乗用車のバンパーにつないだロープで飼い犬を引きずり回し、犬が血だるまになり重い障害を負うなど、過激というよりは異常性を感じさせるほど、TVで放送するにはひど過ぎる描写にあふれている。下ネタ、人種差別ネタ、大麻の吸引、偉人をバカにする、理由のない暴力、子供を殴る、突然の死など、現在の日本では考えられないような要素がエンターテインメントとして扱われている。これは、セス・マクファーレン監督の持ち味なのだ。これらの要素は幾分マイルドになって、「テッド」シリーズにも受け継がれている。だから、これから『テッド2』を誰かと鑑賞しようと考えている人は、本音や下ネタを言い合えるような相手と一緒に劇場に行く方が、より楽しめるだろう。そして、このような過激なギャグの楽しさに一度目覚めてしまうと、日本の多くの作品の穏当さに物足りなさを感じるようになる人も多いはずだ。

 アメリカでも拒否反応があり批判もされる、このようなマクファーレンの過激ギャグについて、全てを擁護するようなことはしたくないが、それでもあっぱれだと思うのは、彼はある意味で、差別なく全てのものをバカにして、笑いの対象にしているという点だ。『テッド2』でいろんな人物がギャグとして扱われているように、あらゆる政治的信条も、人種も、貧富の違いも、病気や障害を持った人も、老若男女も動物も、彼のギャグの対象になることからは逃れられない。この、全方位を敵にまわす姿勢を保つことが、コメディアンとして、クリエイターとしての彼の信念なのだ。その意味で、彼のギャグは逆説的にバランスが取れているといえるし、より過激に、より下らないシーンが増えた『テッド2』は、前作よりマクファーレンの個性が発揮されているといえるだろう。

テッドとともに生きるということ

 『テッド2』でも、人間の親友ジョン(マーク・ウォールバーグ)との関係はもちろん健在だ。前作では、少年時代のジョンと、命を持ったぬいぐるみテッドの出会いが描かれた。その姿は、まるで「くまのプーさん」とクリストファー・ロビンの姿を思い出させる。クリストファー・ロビンは、小学校に行く年齢になってプーさんと別れる決意をするが、ジョンはその後、35歳を超えても、まだテッドと別れようとしない。

 「くまのプーさん」が、少年の頭の中の楽しい夢の世界を具現化していたように、テッドも、ジョンの子供時代に見た夢の象徴であるだろう。中年になってもテッドと暮らしているジョンというのは、子供の頃のたわいのない夢をいつまでも持ち続け、成長しないまま、無駄な知識や大麻の味だけ覚えた中年になってしまった男であるといえる。少年時代にお気に入りだった『フラッシュ・ゴードン』を、いまでもテッドと一緒に楽しんで観ていることからも、そのことが分かる。いつまでも子供のままでいたいジョンは、パートナーと結婚し自分の家族を作るという大人の責任から逃げ続け、毎日のようにテッドと一緒に大麻でハイになりながらTV番組を見ているような生活を送っていたが、恋人から「テッドを捨ててほしい」と迫られたことで、やっと彼はテッドと別居し、その期待に応える。だがそれは、「くまのプーさん」のような決定的な別れとは異なり、結局はお互いの家にいりびたり、大麻でハイになる。ここが、マクファーレンの考え方が強く反映されている部分だ。

 確かに、完全に子供の頃の気持ちそのままで世の中に適合することは無理だ。だが、子供の頃の夢や想像力を全部捨て去っても良いのだろうか。たまに会って、コメディアンをひやかしたり、ジョギング中の男性に屋上からリンゴをぶつけて喜ぶテッドとジョンの関係のように、半分成長して社会と関わりを持ち、半分成長しないで子供のような感性も大事にし続けるという生き方もあり得るのではないか。それは、子供っぽいいたずら心でバカなアニメや映画を作り続けるセス・マクファーレン監督自身が体現する生き方でもある。大人になっても、半分は子供のままバカをやって、楽しく人生を過ごすこと。それがテッドとともに生きるという意味である。

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