「未来」はいつも「今日」の先にある(のか?) 佐々木敦のサイモン・レイノルズ『未来マニア』書評

 著者のサイモン・レイノルズは1963年生まれ、私の一歳年上である。同世代と言ってよいだろう。1990年代の半ばから21世紀に入ったあたりまで、私は音楽を主戦場としていて、ライヴやイヴェントを企画制作したり、海外ミュージシャンを日本に招聘したり、レーベルとしてさまざまなCDをリリースしたりしていたのだが、10年掛けて計11冊を刊行した(季刊のはずだったのに!)今や幻の音楽雑誌FADER(海外の音楽誌THE FADERとは別)を編集発行していた時期、もっとも意識していたのが現在も続くイギリスの先鋭的な音楽雑誌THE WIREで、レイノルズの名前もワイアーの常連執筆者のひとりとして名前を覚えたのではなかったかと思う(レイノルズはMelody Maker出身だが)。2001年にトータルがホストを務めた音楽フェスAll Tomorrow's Partiesの取材でイギリスに行った際、ワイアーの編集部を訪問し、当時編集長(現発行者)のトニー・ヘリントンと編集者のロブ・ヤングに会った。レイノルズとも出来れば面会したかったのだが調整出来ず、その後も面識はないままである。

 レイノルズはジャーナリズムと批評を架橋する書き手であり、主に西欧のポピュラー音楽、特にポストパンク以後やエレクトロニックなダンス/クラブミュージックのジャンル分析と歴史記述においては第一人者と呼ぶべき存在である。日本では過去に『ポストパンク・ジェネレーション 1978-1984』(野中モモ、新井崇嗣訳、シンコーミュージック、2010年)が邦訳されている。『未来マニア──エレクトロニック・ミュージック・ガイド』(原題:Futuromania: Electronic Dreams from Moroder to Migos)はレイノルズの単著としては二冊目の翻訳書である。

 まず最初に言っておかなくてはならないのは、『未来マニア』がレイノルズが2011年に出した『Retromania: Pop Culture's Addiction to Its Own Past』(未訳)の「続編」だということである。本書の「あとがき」でレイノルズはこう述べている。

 未来マニア=未来への執着は、そのタイトルの通り『Retromania(レトロマニア)』の姉妹書とも言えるような本であり、その反転した鏡像、あるいはひねくれた双子かもしれない。『レトロマニア」があきらかに倦怠感を示しているのに対し、『未来マニア』はどちらかというと過剰な活力を表しており、"今日の、明日の音楽(tomorrow's music today)”と捉えることのできる、現代のあらゆるものへのソワソワするような興奮状態に近い。それは狂信的な焦燥感と落ち着きのない不穏さを呼び起こす。(『未来マニア』江口理恵訳、以下同)

 『レトロマニア」はまだ日本語で読むことは出来ないが、そこでのレイノルズの基本的な主張については、柴崎祐二が『ポップミュージックはリバイバルをくりかえす 「再文脈化」の音楽受容史』(イースト・プレス、2023年)で包括的な批判的応答を試みている。レイノルズは先の「あとがき」で『レトロマニア』を「二〇〇〇年代の減速する革新への憂鬱な応答」といくぶん自嘲的に称しているが、柴崎は同書の端々に滲む微温的な(時には歴然とした)ペシミズムに対して、レイノルズの認識(と気分)に一定の理解と共感を表明しつつも、『ポップミュージックはリバイバルをくりかえす』という本の題名に端的に示された「より広い視点をもとにした、時に楽天的な展望をも含んだ議論」を展開している。詳しくはぜひ同書に当たって欲しいが、私自身は柴崎の論に深く説得され、ほとんど全面的に同意しながらも、まさに「気分」としてはレイノルズの「憂鬱」もわからないではなかったのである。というか正直よくわかった。これはやはり同世代だからかもしれない(柴崎氏は1983年生まれで我々より20歳も若い)。再び「あとがき」を引けば「ポストパンク時代にパブリック・イメージ・リミテッドやトーキング・ヘッズなどのバンドの新しい衝撃に覚醒させられ、九〇年代のレイヴ時代には音楽的モダニズムへの再充電(リチャージ)をさせられた」のは私もまったく同じだからだ。実際、私自身、レイノルズの「二〇〇〇年代の減速する革新」と似たようなことを過去に何度も書いたり喋ったりしている。それは「21世紀に入って以後、「音楽」の進化は(良くも悪くも)ほぼ停止した(ような気がする)」というものである。これは理論的主張ではない、あくまでも「気分」である。だが多少とも実感を伴った気分ではある(更に付け加えておくなら、これはしかし「ペシミズム」とは別物だと思う)。

 そんな前提もあって、レイノルズが『未来マニア』を出したとき、そう来たかという微笑含みの感慨と、まあそうなるよねという納得とが両方あったのだ。だがまさか翻訳されるとは思っていなかった(『レトロマニア』が出てないのに)。日本の副題にあるように「ガイド」としても読めるということも翻訳の理由だったかもしれない(でもそれは『レトロマニア』だって同じだ)。しかし二段組で400頁近い大冊を通読して、読む側としては出版順よりも『未来マニア』→『レトロマニア』の方が良いのかもしれないと思った。なぜなら、『レトロマニア』が「減速する革新への憂鬱な応答」だったとしたら、『未来マニア』はポピュラー音楽における「革新」とか「新しい衝撃」とか「モダニズム」とはいったい何のことなのか、なぜ音楽は(少なくともある時期までは)かくも貪欲に「より新しい何か(モードの更新)」を追い求めてきたのかをあらためて根底から問い直し、その欲望(と希望)の本質を掘り下げようとした書物になっているからである。

 四部構成に分かれている。PART1でまず最初に取り上げられるのは、全ての始まりを告げる「アイ・フィール・ラブ」。ジョルジオ・モロダーとピート・ベロッテがプロデュースし、ドナ・サマーが歌ったポピュラー音楽史上屈指の大ヒット曲である。だがレイノルズはこの曲の決定的にして絶対的な歴史的意義を強調しながらも、当事者三名のその前後の人生や、時代的な背景、影響源や影響先などを丁寧に解きほぐしていくことによって、「アイ・フィール・ラブ」の出現を「事件」として神話化するのではなく、適切で応用可能なコンテクストに位置付けてみせる。しかしそれでもこの曲が冒頭に据えられていることが本書のヴィジョンを明確に規定しているのは間違いない。すなわちそれは「未来からの音楽(THE SONG FROM THE FUTURE)」であり「エレクトロニック・ダンス・ミュージックの発明」だった。

 その後、PART1には以下の固有名/ジャンル名が登場する。クラフトワーク、(アナログ)シンセサイザー・ミュージック、テクノポップ(YMOと坂本龍一)、ダブ・レゲエ、UKシンセポップ、インダストリアル・ダンス/エレクトロニック・ボディ・ミュージック、アシッド・ハウス、レイヴ(ブレイクビーツ・ハードコア)、ガバ/グルームコア、ジャングル(オムニ・トリオ/ロバート・ヘイ)、アートコア(ア・ガイ・コールド・ジェラルド)、ミニマル・テクノ(GAS)、IDM(ボーズ・オブ・カナダ)。後で述べる理由によりテクストの長短はまちまちだが、「アイ・フィール・ラブ」以前から出発し、1970年代〜80年代〜90年代までのエレクトロニック・ダンス・ミュージック或いはポピュラー音楽における(非アカデミックな)エレクトロニック・ミュージックの歴史を(完全にではないとしても)辿っていく。必ずしも議論が緻密に繋がっているわけではないが、時系列的に並べられることによって、たとえば「ダンス」と「アンビエント」が対立概念ではなく並走するジャンル(大きなひとつの潮流の裏表)であるということの現実的かつ理論的な意味であるとか、90年代以後の様式/意匠の爆発的な分岐が、単なる枝分かれではなく、レコード店のコーナー名の付け替え(だけ)でもなく、属人的な才能と歴史的な必然性の乗算によるものであったことなどがクリアに見えてくる。

 PART2はゼロ年代ということだろうか。14のテクストから成っていたPART1に対して、比較的長めのテクストが3つしかない。グライムとダブステップ(Burial)とデジタル・マキシマリズム(Rustie)。PART1で素描された90年代までの「エレクトロニック(・ダンス)・ミュージック」のカンブリア爆発が過飽和状態となり、ひたすら増殖していくジャンル名を無理やり包摂する、いわば積分的なカテゴリとして「ダブステップ」が便利に乱用されるようになったというのが私の受け止めだが、レイノルズはベリアルにダブステを代表させることで議論の放散を回避している。だが、このパートで注目しておくべきは「マキシマリズム」という概念の導入(もちろんテクストの冒頭でも触れられているように、これはレイノルズの発明ではない)だろう。言うまでもなく「ミニマリズム」の対義語だが、実のところ音楽のみならず他のさまざまな芸術文化(文学、映画、美術、建築etc...)において、いや人間の思考パターン全般において、「ミニマル=最小限」に「マキシマル=最大限」を対置する戦略は幾度となく採用されてきた。ラスティの『Glass Swords』(2011年)を出発点として、レイノルズはデジタル・テクノロジー以後のマキシマリズムを定式化しようと試みている。それは90年代からゼロ年代初頭あたりまではほぼ支配的(とまでは言わないまでもトレンドと「進化」の中心)だったミニマリズム(クリック・テクノ、フリーケンシー・ミュージック、ロウアーケース・サウンドなど)への自覚的/無意識的な反動或いは異議申し立てであり、いうなればパンクの後にプログレをやるようなことだと言える。Less is more. → Less is less. → More is more. レイノルズはこう書いている。

〝マキシマリズム〟という言葉は、多種多様なアイデアや連想を内包できるほどに曖昧で包容力があるが、この解釈の一般的な傾向は、影響源や素材という点での〝インプット〟が凄まじく多く、また密度、スケール、構造の複雑さ、そして純然たる威厳という点での〝アウトプット〟も凄まじく多いということにある。
(『未来マニア』)

 ラスティの他にデジタル・マキシマリズムのアーティストとしてレイノルズが挙げているのは、ハドソン・モホーク、フライング・ロータス、サンダーキャット、、、そしてジャスティスである。レイノルズはそこから思うさま思弁を押し広げていく。この論の後半の濃密さと跳躍度は本書の中でも特に際立っている。

 PART3は2010年代以後の展開を扱っている。まず女性電子音楽家たちの肖像。だがこのテクストが書かれたのは2011年なので、2010年代後半から急激に台頭したデジタルとアナログを併用するニュータイプの女性アーティストたちの話は出てこない。しかしこれは「レトロマニア」の文脈かもしれない。ゼノマニア(異国=異質なものへの熱狂)をめぐる論も「レトロマニア」との関わりで重要である。レイノルズはこう述べている。「個々のアーティストではなく、ジャンルというマクロな視点に立つならば、アナログ時代に緩やかな時間をかけて醸成されたハイブリッドなスタイル (たとえば、ニューオーリンズR&Bのリズムを反転させる形で誕生したレゲエなど)のほうが、デジタル時代のカット&ペースト的なハイブリッドよりも、強靭な持続力と豊かな多産性を備えているように思われる。エキゾチックなビートや未開拓の民族音楽を追い求める衝動には、多分に一過性の流行(ファディッシュネス)という側面があり、それはプログ文化以降(ブログ化)の音楽シーンがもたらす激しい新陳代謝のサイクルによって、さらに加速している」。遡れば、ポストパンク〜ニューウェーヴにおけるダブやアフリカ音楽などの参照/引用/剽窃は、今日では文化的植民地主義として批判に晒される可能性を増し、それはいわゆる「ワールドミュージック」についても同様である。と同時にそれは、ポピュラー音楽(という概念自体が西欧的なものだが)の西欧中心主義が加速するとやがて必然的に非西欧(西欧の外部)へと向かい、そしてそのベクトル自体が「西欧」を解体(自壊)に導くという歴史的なプロセスをも意味している。この点をレイノルズは次のように説明している。

 この流行をもう少し寛容に解釈するのであれば、まずはゼノフィリア(異文化への熱狂)とネオフィリア(新しさへの熱情)の近似性を認識することから始めてみれば良い。すでに地球上に存在している(もう何十年も存在していたかもしれない)が、あなたにとっては新しい異質な音を追求する衝動は、過去に西洋ポップスの先鋭的な分野を駆り立てた〝未来への渇望〟や〝未知への探求〟の置き換えであるかもしれない。もし、私たちのロックやポップスの伝統が沈滞し、行き詰まっているように見えるのだとすれば、そして、その前進がまさに自らの輝かしい歴史の過剰な蓄積によって阻まれているのだとすれば、その行き止まりから脱出するひとつの手段は、横方向へと一歩踏み出すことである。西欧的な歴史の物語から完全に身を離し、かつてないほどアクセスが容易になったありとあらゆる別の場所を探索することなのだ。
(『未来マニア』)

 周知のように、この予言(!)は、その後(2011年以降)の時間において現実のものとなった。そこにはブログからSNSへの進化(?)と動画配信、そしてサブスクリプションの登場など複数の要素が関与している。音楽のモード(様式と流行)の加速とグローバリゼーション(遍在と均一化)の功罪については別途検討が必要だろう。だが今は先に進もう。

 Jlinと彼女が属するジャンルであるフットワークを手短かに紹介したテクスト、『Random Access Memories』(2013年)のリリースを契機とするダフトパンク論に続いて、本書で最も長尺のテクストであるオートチューンの歴史を総括的に論じた文章が置かれている。「ライフ・オブ・オートチューン:ピッチ補正はいかにして21世紀のポップ・ミュージックに革命を起こしたか」と題された論考は非常に読み応えがある。オートチューンという単なるひとつのテクノロジーがある種の音楽家たちの方法と内容に齎した数々の貢献の考察は、最終的には一種の文化論のかたちを纏うことになる。次は2010年代のアンビエント/ニューエイジのリバイバルを論じたテクストで、PART1の幾つかの文章の続編的な趣きがある。

 そしてこのパートの最後のテクストが「コンセプトロニカ」である。コンセプチュアル・エレクトロニカ、これはレイノルズによる造語である。というかこれに限らず、本書を読んでいていたく感心(?)するのは、著者の卓抜なタームセンスである。とにかくレイノルズは新しいジャンル名やキーワードを作るのが好きなのだ(私も人のことは言えないが)。「○○と呼びたくなる」などといった文章が頻出する。人口に膾炙し、今ではごく普通に使用されているワードもあれば、すでに廃れてしまった言葉、そして一度として読んだことも聞いたこともなければおそらくレイノルズ(とその周囲)しか使っていなかったであろう語もあり、その判別は容易ではない。だが、この能力は明らかに音楽ライター/批評家としてのレイノルズの才気を証立てるものだと思う。

 コンセプトロニカ論は、今ではあまり顧みられることのないチーノ・アモービのアルバム『Paradiso』(2017年)から語り起こされるが、レイノルズがこのワードを思いついたのはそれより10年以上前、マトモスのアルバムレビューを書いていた時のことだったという。読んでいくとわかってくるのは、このテクストがPART1の末尾に置かれたIDM論と繋がっているということである。それはボーズ・オブ・カナダの『Music Has the Right to Children』(1998年)を論じたものだったが、そもそもIDM=インテリジェント・ダンス・ミュージックの「インテリジェント」という語はそれ以前から誤解や毀誉褒貶に晒されてきた。90年代初頭、テクノ勃興期にワープ・レコードが掲げたコンセプトは「Artificial Intelligence」だった(AI!!!)。IDMの「 I 」は明らかにこれを踏まえている。だが、ここで言われる「知性」とか「知的」の意味するものは実は時代とともに変化してきた。それは「ハードウェア(テクノ)→ソフトウェア(IDM)→インターネット(コンセプトロニカ)」というプロセスとして整理出来るかもしれない。更にそれより以前、まさに本書に記述されているように、70年代頃から(アナログ)シンセサイザーに代表される電子楽器の汎用化がポピュラー音楽に不可逆的な変化を促し、そうした「音楽する機械」は次第に軽量化、低コスト化することでより一般的になり、ハウスやテクノ(そして別の文脈でヒップホップ)が誕生する。やがてアウトボードはソフトウェアとしてパーソナル・コンピュータに格納されるようになり、いわゆるデスクトップ・ミュージシャンが出現する。IDMはその最初の大波だったと言える(この意味でBOCをIDMの代表と呼ぶことはやや語弊があると思う。むしろリチャード・ディヴァインやキット・クレイトンなどの方がIDMらしい)。だがDTM/DAWがごく当たり前の時代となり、テクノロジーのアップデートが音楽の「革新」にダイレクトに結びつかなくなってくると、インテリジェントな音楽は、音楽に直接関わる技法と技術の次元ではなく、その外部に広がる種々の「知」に燃料を求めるようになる。私の理解では、それがコンセプトロニカ、ということだと思う。ここでのレイノルズの議論は極めて興味深い。

 コンセプトロニカとは、それ自体がひとつの独立したジャソルというよりも、むしろ芸術的な表現の作法であり、同時にオーディエンス側の受容のモードでもある。それは、高解像度なデジタル・アブストラクション(抽象電子音楽)から、ヴェイパーウェイヴやホーントロジーといったスタイルに至るまで、尖った音楽の風景を横断していくものだ。いわばそれは〝マクロ・ジャンル〟であり、そこでの領域の一貫性は、共有されたサウンドの特質によるものというよりは、ミュージシャンとリスナーが共有する価値体系、手続き、前提、そして期待感によって担保されている。コンセプト主導型のプロジェクトは、供給過剰となったアテンション・エコノミーの中でアーティストが競い合うための手段を提供すると同時に、彼らが抱く強大なアイデアへの熱狂を反映するものでもある。コンセプトロニカを牽引するアーティストの多くは、美術学校や大学院というアカデミアの洗礼を受けており、自身の作品や会話の中に、批評理論や哲学への言及をちりばめることをごく自然にこなす。
(『未来マニア』)

 レイノルズはこのようなコンセプトロニカ・アーティストたちの「高度なディスクール」は、リチャード・D・ジェイムスやルーク・ヴァイヴァートなど「九〇年代IDMの巨匠たち」の「かなり地に足のついた日常語」と対照的だと述べている。「彼らのレコードは、ポスト構造主義の概念などより、幼稚なユーモアやポルノへの言及にまみれている」。もちろんIDMにもDJスプーキー(ポール・D・ミラー)のような知性派はいた。それはレイノルズも認めている。「それでも、かつてのエレクトロニカは圧倒的に〝非言語的〟であり、それが意味すること以上に、音響として聴覚化することに重きを置いていた」。だが時代は変わった。

 世界中の美術機関やアカデミアで使われている批評の共通言語に精通したコンセプトロニカのアーティストたちは、自らをいかにキュレーションすべきかを熟知している。彼らは、企画書や助成金の申請書へとスムーズに翻訳できる言葉を用いて、自らのプロジェクトを提示することができるのだ。そしてこのスキルは非常に役に立つ。なぜなら、これらのアーティストの活動を維持させているのは、レコードのリリースによる収益ではなく、拡大を続ける実験音楽フェスティヴァルの国際的なサーキットでのパフォーマンスや、美術館や大学で開催される[公的資金で]助成されたコンサートだからである。彼らは音楽理論よりも視覚芸術のトレーニングを受けていることが多く、そのアーティスト像は、常に音響的な実験へ圧倒的に焦点を当ててきたオウテカのようなIDMのパイオニアよりも、多様なメディアを巻き込みながら壮大なスケールで作品を展開するマシュー・バーニーのような人にますます近づいていく。
(『未来マニア』)

 実にクリティカルな、そして辛辣な指摘である(そしてこれは音楽に限った話ではない)。レイノルズのような評論家は、このようなコンセプトロニカ・ミュージシャンの(あたかもコンセプチュアル・アーティストのような)のアティチュードに擁護的なのではないかと思ってしまうかもしれないが、この論を読む限りでは、彼のスタンスはかなり両義的なものである。しかし最終的に、レイノルズはコンセプトロニカに対する批判的な視座を引っ込める。そこで彼が持ち出すのは、往年のポストパンクとの類似性である。「コンセプトロニカとポストパンクの双方において、脱神話化(デミスティフィケーション)と、嘘の吹雪の先を見通そうとする同様の関心が存在している」。レイノルズの(差し当たりの)結論を私なりにパラフレーズすれば、コンセプトロニカとポストパンクにはともに一種の破壊衝動のような欲動がある。つまり問題はインテリジェントか否かではない。既存の体制を批判することと、音楽(芸術)本来の「恍惚な交感」を止揚するべく奮闘するという振る舞いにおいて、コンセプトロニカは40年前の「パンク以後」と同じ意味で「IDM以後」なのである。

 このようなレイノルズの保護者的とも言える優しさ(?)は、生き馬の目を抜くアートワールド/アートマーケットで生存戦略に汲々とする若きアーティストたちに年長のベテラン批評家/キュレーターが注ぐ視線と似ているかもしれない。私はそこまで優しくなれないな、という気持ちもなくはない。

 最後のPART4は「コーダ」と題されているが、いわば付論である。2部から成っていて、SF映画の音楽/サウンドトラックとSF/ディストピア小説の音楽を総覧的に扱っている。第1部のタイトルが「これが未来だというなら、どうして音楽はこれほどまでにダサいのか?(If This Is the Future, How Come the Music Sounds So Lame?)」なのが面白い。実際には、そうダサくはない例も挙げられているのだが。

 さて、ずいぶん長くなってしまったが、こうしてようやく私たちは本書の内容を(それでも相当駆け足で)通覧して、最初に引用した「あとがき」に戻ってきた。無理やり纏めてしまうなら、本書に描かれた音楽の「革新」の基盤は明らかに(デジタルな)技術革新である。音楽テクノロジーのアップデートが音楽そのものを更新する。これは私自身がかつては信じていた定理であり、それゆえにテクノロジーのヴァージョンアップが音楽のスタイルや構造に変動を与えてくれなくなると、当然ながら更新は止む。だが、やみくもに新しさを求め続けること、最先端の音楽は最先端の技術に宿るという信仰、すなわち音楽のポスト/モダニズム的な運動自体が、果たして(最初から?)本当に正しいのかという問いはあり得る。こう考える限り、むしろこう考えるがゆえにこそ、未来マニアはいつか必ずデッドエンドに衝突することになるのではないか? ならばひょっとして、考え方を根本的に変えるべきなのだろうか?

 この問い、この悩み、この逡巡は、サイモン・レイノルズのものというよりも、私自身のものである。そう、私はたぶん、もう数十年も、ずっとこのことを考えている。音楽は(それは私にとっては、あらゆる芸術は、と言ってもほぼ同じことだが)、新しくあり続けなければならないのか? いや、諦めたっていい。諦めざるを得ないことだってあるのだし、そんなことは最初から気にしていない人たちのほうが楽しそうだ。だが同時に、そう簡単に「新しさ」を放棄出来るわけがないじゃないか、という気持ちもある。そう簡単に諦めるわけには、それを捨てるわけにはいかない。だって、ずっとそれでやってきたのだから。

 この意味で、レトロマニアと同様に、未来マニアも一種の病いなのだと思う。レトロマニアが病いのように見えるのは、未来マニアを病んでいるからなのだ。レイノルズも私も(もしかしたら同世代であるせいもあって?)この病いに罹っている。

 では、どうしたらいいのだろうか? 正直、それは今もわからない。だがひとまず、本書の「あとがき」で、レイノルズはこんなことも書いている。

 『未来マニア』は、私の中の音楽の在り方を構成する要素であり、私がサウンドに反応し、それを処理する方法の核にあるものだ。そのため、それはまるで神経学的な疾患ーー驚きとスピードの感覚への依存症ーーのようにも思える。だがこれもまた、本当にいわゆる"未来”と関係があるのかは疑わしい。むしろ今、この瞬間にどう感じるかという話なのだ。
(『未来マニア』)

 「今、この瞬間に」。それは常にそうなのだし、そうでしかない。「今日の、明日の音楽(tomorrow's music today)」。未来の音楽は、いつだって今、この瞬間に、視界の果てに見え隠れしているものなのであって、それが到来した時にはもうtoday's musicなのだ。だから仕方ないとも、だから問題ないとも、もちろん私は思わないし、思えない。だがそれでも、このかなりヴォリューミーな書物を読み終えようとして、最後の一行に置かれたシンプルなひとつの英文ーーそれは敢えてここには書かないーーを目にしたとき、一度も会ったことのない同世代人であり、似たような仕事を長年してきて、ともにたぶん今も未来マニアに罹っているサイモン・レイノルズという人物のことを、私は前よりも少しだけ身近に感じたのだった。

■書誌情報
『未来マニア──エレクトロニック・ミュージック・ガイド』
著者:サイモン・レイノルズ
翻訳:江口理恵 
価格:4,400円
発売日:2026年7月29日
レーベル:ele-king books

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