1979年の村上春樹――円堂都司昭 × 仲俣暁生がデビュー作『風の歌を聴け』を読む

 村上春樹の3年ぶりの長編小説『夏帆』(新潮社)が発売され話題を呼んでいる。新作をどのように評価するにせよ、1979年に作家デビューして約50年ものキャリアを積み上げてきた春樹はいまや“大作家”の地位を揺るぎないものにしている。

 では、そんな村上春樹はそもそもどんなところから出発した作家だったのか――。当時の文芸界を知るのに最適なイベント企画が、東京・赤坂にある選書専門店「双子のライオン堂」にてシリーズとして続いている。文芸評論家の円堂都司昭と仲俣暁生による連続読書会「昭和50年代文芸を読む」である。

 村上春樹の登場は、いまにつながる日本文学界の革新の時代とも重なっていた。そんな視点から、デビュー作『風の歌を聴け』を読み解いた回の模様をお届けする。(2026年3月収録)

「村上春樹」はパロディのようなペンネームに見えた

円堂:連続読書会「昭和50年代文芸を読む」を企画しました円堂都司昭です。この時期は口語体の小説が立て続けに出たのにくわえ、漫画やロックといったサブカルチャーも文芸の世界に入ってきた一つの転換点でした。そこで、まずは村上龍『限りなく透明に近いブルー』(講談社文庫)から村上春樹『風の歌を聴け』(講談社文庫)まで昭和50年代前半の文学を読みなおしてみようと選書しました。50年代後半を読む企画も続く予定です(5月から継続中)。

 私は1963年、仲俣さんは1964年の生まれです。1979年に発表された『風の歌を聴け』を私が読んだのは高校1年生のとき。村上龍の『限りなく透明に近いブルー』は76年に芥川賞をとって100万部を超えるベストセラーにもなりましたが、まずは群像新人文学賞をとってデビューした作品でした。なので、「『群像』という純文学の雑誌にすごい小説がのるぞ」というイメージがあってチェックしていた。それで、この年の群像新人文学賞はどんなものが出るんだろうと村上春樹の『風の歌を聴け』が掲載された号を読んだわけですね。 

仲俣:私は『風の歌を聴け』はデビューしてすぐには読んでいません。もともとカート・ヴォネガット・ジュニアが大好きだったのですが、「春樹はヴォネガットっぽい」という評判が前情報として入ったうえで読み、「たしかにそうだな」と思った記憶があります。

円堂:それこそこの表紙のようなイメージで、外国が舞台だと思ったという感想も当時ありました。実際は神戸近郊の芦屋の話なんだけど、すっと読んでるぶんにはどこの街かわからない。村上春樹以前にアメリカ的な軽やかな文章を書いていたひとに片岡義男がいたので、当時はその路線みたいな感じで見ていたところはありますね。

 それと、いまのひとだとピンとこないと思うのですが、村上春樹というペンネームは当時ふざけた感じがしたんです。「村上」と言えばすでに大ベストセラーを飛ばしていた村上龍がいて、「春樹」と言えば角川映画で評判になっていた角川春樹だった。村上春樹と書いてあるとその2人を連想したわけです。村上春樹というのは本名なのですが、77年に『僕って何』(角川文庫)で芥川賞をとった三田誠広もエッセイで「村上春樹はペンネームを変えろ」と言っていた。本名なのに変えろというのはおかしいと思うかもしれませんが、たとえば村上龍は本名が村上龍之助で、漢字は一字違いますが芥川龍之介とかぶっているのを意識したのかペンネームにしているんですよね。なので、本名だからといって「村上春樹」という字面で押し通すのは、「このひとすごい神経してるな」という印象があった。そのうえ文体も軽いので、出てきたときはちょっとふざけたパロディのひとという印象さえ受けましたね。それだけではないということがわかったのはもう少し後になってからです。

仲俣:私はむしろ逆の印象を持っていたのでおもしろいですね。村上龍のときは、それまでの日本文学と違って読みやすい小説が出てきたなと思ったけど、『風の歌を聴け』や次作の『1973年のピンボール』(講談社文庫)を読んだときには「とにかく暗い話だな」と思っていた。とくに鼠という登場人物が暗い(笑)。当時はちょうど70年代の暗くて重い時代から80年代の明るくて軽い時代に切り替わるころで、鼠は前者の重さのほうを引きずっている。だから読んでいてしんどいなと思った。もちろん文体や短い断章で進む形式には軽さも感じていて、それこそ「こんなのなら自分でも書けるんじゃないか」とも思ったくらいだったんですが、主題としては重たさの印象が強かった。

 くわえて、私のデビュー評論である『ポスト・ムラカミの日本文学』(朝日出版社→改訂新版:破船房)もひとつの問題提起になると思います。この本の主題は「村上龍と村上春樹の登場によって日本文学は1回新しいスタートを切り直した。では、そこで日本文学はどう変わったのか」というものなのですが、簡単に言うと村上龍の『限りなく透明に近いブルー』に出てくる「僕」はなにも考えずに周りのものをうつすカメラアイ、つまり「見る小説」であるのに対して、村上春樹の「僕」はタイトルが『風の歌を聴け』であることにも出ているように、ただひたすら話を聞く。つまり「聞く小説」でした。また、龍はのちに『だいじょうぶマイ・フレンド』(集英社文庫)で飛べなくなるスーパーマンを主人公にしたりするように水平性が底流にあるのに対して、春樹はデビュー小説から繰り返し登場する「井戸」に象徴されるような垂直性の作家である。二人のそういった対比についても考えられればと思っています。

「数える」ことと死の軽い描写

仲俣:というわけで『風の歌を聴け』そのものに入っていきましょう。久々に読んでみてまず思ったのは、これは「僕」の帰省中の物語なんですよね。「僕」と友人の鼠がジェイズ・バーという飲み屋にしょっちゅう行ってビールを飲んだりぐだぐだしゃべったりするんだけど、よく考えたら「僕」も鼠もおそらく実家からバーに通っている。言ってしまえば、思っていたより子どもの話じゃないかと。

円堂:たしかに(笑)。私が再読して思ったのは、とにかく死に関するエピソードがやたら書かれていることです。いきなり脱線めくのですが、この作品は新人賞に応募したときのタイトルは「ハッピー・バースデー/そして/ホワイト・クリスマス」だったそうです。ただ、それだと表記などの面で困るから変えてくれと編集者が頼み「風の歌を聴け」にしたという。では、「風」という言葉がどんなふうに出てくるかなと思ってめくり返してみたら、いちいち死にまつわるところで使われている。

 まず、「僕が三番目に寝た女の子」が自殺したエピソードでの描写。彼女は「雑木林の中で首を吊って死んだ。彼女の死体は新学期が始まるまで誰にも気づかれず、まるまる二週間風に吹かれてぶら下がっていた」とあります。次に、「僕」の好きなデレク・ハートフィールドという架空の作家が書いた作中作「火星の井戸」で、主人公が「風」と対話するシーン。そこで「太陽は年老いて死にかけてる」という話がされた直後に主人公は銃で自殺します。ほかにも、「風」という言葉ではないですが意味の近い文章として、「あらゆるものは通り過ぎる。誰にもそれを捉えることはできない。僕たちはそんな風にして生きている」という一節もある。これはエリック・ドルフィーというジャズ・ミュージシャンの有名な言葉「音楽は終わると空気の中に消えてしまい、二度と捉えることはできない」を意識したものだと思いますが、ここでは「生も死も風のように通り過ぎていく捉えようのないものだ」という見方に転換されているわけですね。

仲俣:並べてみるとわかりやすい。ただ、私の場合「とにかく暗い」というのが当時の第一印象だったので、この作品が死についてやたら書いているというのはむしろ自明だと思っていたところはあります。

円堂:私が軽さのほうの印象を強く持っていたのは、死も軽量化して描かれていたからかもしれません。よく言われるように、春樹の小説はやたらとものを「数える」わけですよね。冒頭近くの「この話は1970年8月8日に始まり、18日後、つまり同じ年の8月26日に終わる」というフレーズも有名ですし、「僕」がこれまでに寝た3人の女の子も「最初の女の子」「二人目の相手」「三人目の相手」として出てくる。さきほども触れたとおり、最後の子は自殺してしまったわけですが、名前が出てくることも自殺の理由が説明されることもない。

 この「数える」という特徴は、春樹と龍の対比とも関わってきます。『限りなく透明に近いブルー』はドラッグをやっている主人公のリュウが見たことや感じたことを書いたもので、いわゆる「感覚の拡張」もテーマにある。当時はこの小説を評するに「感性」や「感受性」という言葉もよく使われました。おもしろいのは、それを意識してか、『風の歌を聴け』ではデレク・ハートフィールドが良い文章を書くことについて「必要なものは感性ではなく、ものさしだ」と言ったと出てくることです。この「ものさし」こそが「数える」につながる。さらに言えば、春樹はじつは82年に糸井重里と対談しているのですが(対談集『話せばわかるか。』所収)、そこで「“感性”とか“優しさ”ってコトバがボクはいちばん嫌いなの」とも言っています。

仲俣:貴重な記録ですね。春樹がやたら数えるという問題は、当時もよく言われたし、批評の世界でも柄谷行人『終焉をめぐって』(講談社学術文庫)から最近では東浩紀『平和と愚かさ』(ゲンロン)まで触れられている問題です。そこからいろいろと議論することはできるけど、まずは死の軽さにつながっていると。

円堂:さらに言えば、「死が軽く描かれる」というのはいわゆる妊娠小説の系譜でも指摘できます。『風の歌を聴け』の前年に群像新人文学賞をとってベストセラーになった中沢けいの『海を感じる時』(講談社文芸文庫)は、主人公が妊娠の不安をおぼえるものの生理が来て妊娠してなかったことがわかる話でした。同じ年には見延典子の『もう頬づえはつかない』(講談社文庫)という女子大生が中絶する話も出ていて、さらに前年には三田誠広も『赤ん坊の生まれない日』(河出文庫)で中絶を扱っています。後者ふたつはいずれも「男が頼りないので女性が一人で決める」という話なのですが、『風の歌を聴け』は同じ時期に中絶をもっとさらっと描いている。

小説を書きたいけど書けない「僕」と鼠

仲俣:やはり春樹は「軽さ」において特徴的な作家だった。さきほども触れましたが、この軽さはもちろん文体についても言えますし、断章で進む形式にも言える。ひとつひとつの話が細切れになっていて、それも時間的にシャッフルされているので死を扱っているのにストーリーライン自体は薄く進むわけですよね。春樹には大学時代に見聞きした全共闘運動のトラウマがあって、それを文学作品として表現するには、こうするほかなかったんだということもよく言われます。

 そして、そのあたりから「重さ」についても語れると思う。たとえば初読時から印象的だったのは、「僕が三番目に寝た女の子は、僕のペニスのことを「あなたのレーゾン・デートゥル」と呼んだ」というところです。というのも、1970年代の多感な中学生や高校生は、私も含めてこの「レゾン・デートル=存在理由」って言葉をよく使ってたんですよ。「ひとは中学生ぐらいになったらレゾン・デートルについて真面目に考えなければいけない」というプレッシャーのようなものがなんとなくあって、私も中学生の頃につけていた日記にはよく「レゾン・デートル」という言葉を書いていた(笑)。『風の歌を聴け』でも、さきほどの一節から「僕は以前、人間の存在理由をテーマにした短い小説を書こうとしたことがある」とつながる。そして、さらにそこから「結局小説は完成しなかったのだけれど、その間じゅうぼくは人間のレーゾン・デートゥルについて考え続け、おかげで奇妙な性癖に取り憑かれることになった。全ての物事を数値に置き換えずにはいられないという癖である」となって、重さがやむをえず「数える」軽さにつながっていくわけですね。

円堂:「書けない」というテーマで言えば、『風の歌を聴け』でのしゃべることに関するエピソードも印象的です。「僕」は少年時代はひどく無口で、医者に通わされたりもしたのだけど、14歳の春に「三ヶ月かけてしゃべりまくり、7月の半ばにしゃべり終えると40度の熱を出して三日間学校を休んだ」ということが起こる。それで、そのあと「無口でもおしゃべりでもない平凡な少年」に落ち着いたと。これはおなじく全共闘世代の作家である高橋源一郎のエピソードを思い出させます。彼は春樹よりすこしあとの80年代はじめにデビューした作家ですが、20代のころに文章が書けなくなる一種の失語症のような状態に陥って、そこから一行書いて二行書いてというかたちでリハビリしていき作家になったという。全共闘世代の挫折は、そのころのイデオロギーを語る言葉が一切使えなくなるという言語的な転換点でもあったということがわかります。『風の歌を聴け』のここのエピソードも、それにまつわる寓話として読むこともできる。

仲俣:端的に言えば、これは「小説が書けないひとについての小説」なんですよね。鼠も小説を書いている人だという設定だし、いまこの書かれつつあるテキスト自体も、なかなか書けない「僕」が書こうとしている当のテキストであるというつくりになっている。いまから振り返るとダブル村上によって日本の文学が更新されたという見方ができるわけですが、それを書いてるときの春樹なり語り手の「僕」は非常に悪戦苦闘しているわけで、この「書くことについての小説である」ということについては春樹は龍より際立っています。

 そして、この「書くこと」のテーマは「鼠とは誰なのか」問題にも関わってきます。一般的には、「僕」=村上春樹で、鼠はそのオルターエゴのようなものだとされがちです。ただ、私はあるときから鼠こそが村上春樹で、「僕」はこの小説を書くためにつくられた虚の視点だと思うようになりました。この小説に語りの視点が3つあるのがポイントです。ひとつはベースとなる「僕」の語り、もうひとつはラジオDJのブースが描かれる語り、そして「6」の断章で出てくる鼠を三人称で描く語りです。3つ目は直前で鼠が構想している小説の続きとも読めるのだけど、それにしても唐突な視点の変更で、「この三人称はだれが語ってるの?」と思わされる。この小説全体は「僕」が語っているものなのに、なぜ「僕」は「僕」のいない場面の鼠を書けたのか。それはこの小説が、鼠が鼠のままでいたら書けなかったことを「僕」を発明することで外から記述して書いたものだったからなのではないのか、と。

 さらに言えば、これは「この小説にはあとがきがあるかないか」問題にもつながります。単行本やいまの文庫版では最後に「ハートフィールド、再び……(あとがきにかえて)」という文章があり、その末尾の「一九七九年五月 村上春樹」という署名によって「僕」=村上春樹という印象が強化される。しかし、そこで「僕」=村上春樹が実際に墓を訪れたというハートフィールドは架空の作家なので、もちろんこのあとがきもフィクションです。そして、じつはこのパートは『村上春樹全作品』(講談社)では削除されているんですよね。私はそちらのほうが作品として正しいと思っていて、あとがきの直前にある言い切りの文句、「昼の光に、夜の闇の深さがわかるものか」で本来終わるべき小説だと思います。

円堂:あとがきによって主人公の「僕」がいかにもリアルな作者であるように見せるというつくりは『限りなく透明に近いブルー』とも共通します。こちらも最後に「リリーへの手紙――あとがき」があって、文章の末尾には「リュウ」と署名があった。

仲俣:そうなんですよね。というわけで、いずれにせよ『風の歌を聴け』が「僕」と鼠と村上春樹の3者の関係がやっかいに絡まったテキストであることは間違いない。そして、それは高橋源一郎とも共通する、端的に言えば連合赤軍事件につながっていくような「学生運動と死」にまつわる語り得ないトラウマからなにかを語り出すときに必要な装置だった。

円堂:ただ、村上春樹の創作を学生運動と結びつけるのはその後に一般的になった論調で、初読時はそこまで意識しなかった記憶があります。私は高校生時代に社研(社会科学研究部)部員でした。私がいた頃の社研は普通の部活動でしかなかったですけど、その10年ほど前の過去には学生運動の拠点となっていたことは知っていました。でも、村上春樹と学生運動の関係は、すぐには思い浮かばなかったですね。

 やはりこの小説で重いのは「三番目の女の子」が首を吊って死んだことであり、他にも何人か出てくる似たタイプの女の子ですよね。歌詞が引用されているビーチボーイズ「カリフォルニア・ガールズ」のレコードを貸してくれた女の子は、久しぶりに連絡しようと思ったら病気になって大学を退学していたことがわかる。小説のなかで現在進行系の関わりを持っている「小指のない女の子」にしても、「明日から旅行するの」ということでしばらく会っていなかったけど、じつはそのあいだに中絶手術していた(相手は「僕」ではない)ことがわかるというちょっと危ういタイプの子で、この物語のあとは二度と会っていない。彼女たちは、言ってしまえば後に『ノルウェイの森』(講談社文庫)に出てくる直子の原型です。つまり、あちら側に行ってしまってもう戻ってこない女の子。

仲俣:そこも大事な論点で、村上春樹の小説には男の子があまり出てこない。「僕」と鼠とときどきほかにも男の登場人物がいますけど、いずれにせよ友達がいない感じで、言及としては女の子の話ばかりしている。ただ、円堂さんの言うとおり影のある子ばかりで、のちの言葉でいえばメンヘラに近いですよね。女の子の話ばかりというのは「村上春樹の主人公がモテすぎ」問題とも関わるけど、この傾向は不思議といえば不思議ですよね。

円堂:女性にしてもリアルな女性像というよりもある種の象徴として書かれているところがありますよね。すくなくともすごく感情を込めて書くということはない。このあたりは春樹の形式重視の姿勢ともつながるんですかね。さきほど触れた糸井重里との対談の時点でも「何もない表現を先に出して、後から内容がついてゆくほうが、正直じゃないかという気がしてる」「なるたけ、思いを減らそうとしてるのね。なるたけ文体から始めようと思ってる」と言っていて、これはその後もずっと続く姿勢です。自分の心情というよりは形としてまず文章を作るという。

仲俣:春樹の様式美みたいなものはその後どんどん洗練されていきます。ただ、『風の歌を聴け』ではまだ脇が甘いところがあるというか、いまなら直接的には書かないようなことをちらっと書いているのもおもしろい。たとえば学生運動についても、『風の歌を聴け』では「僕」が機動隊に前歯を叩き折られた話が出てきたりします。関連して、ジェイズ・バーで「僕」が30歳くらいの女性と会話する場面も興味深い。20歳そこそこくらいの鼠や「僕」は70年安保の世代なんだけども、その女性は「私も昔は学生だったわ。60年ごろね。良い時代よ」とこぼす。つまり、60年安保と70年安保はちょっとちがうのよね、と。この女性はちょっと嫌な感じに描かれているようにも読めて、のちの村上春樹のフェミニズムに対する微妙な距離感もふくめ、いわゆる「処女作にはその作家のすべてがある」という感じがあるなとも思います。

YMOと村上春樹

円堂:最後に作品からすこし離れて、当時のカルチャーシーンから見た村上春樹についても振り返ってみたいと思います。

 まず、いまから振り返ると、村上春樹とテクノポップが同時代に出てきていたことが興味深い。つまり、『風の歌を聴け』が出た1979年はYMOが「テクノポリス」で「TOKIO」と歌った年でもあるんですよね。「TOKIO」というのは、外国人が「東京」をうまく発音できないのをわざと真似して言ったものです。しかも、YMOは当時の中国の人民服を衣装として着ていて、そのうえで「TOKIO」と言い出したものだから、「おまえたちはいったい何人なんだ」という無国籍観がありました。『風の歌を聴け』が芦屋をどこの国にあるのかわからない街のように書いていたのと通じるかもしれない。そして、テクノポップというのはもちろんテクノロジーを使ってリズムなどを計算して打ち込んでつくる音楽なわけです。そこでもやたらと「数える」春樹と当時の感性としてシンクロしていたところがあるんだろうなと。

 ちなみに『風の歌を聴け』は1981年に映画化もされているのですが、鼠を演じたのはヒカシューのボーカル巻上公一です。ヒカシューも当時「テクノ御三家」のひとつとされていたバンドで、私はそれこそYMOやヒカシューを聞きながら村上龍や村上春樹を読んでいました。

仲俣:出版界で言えば、雑誌『POPEYE』が創刊されたのが『限りなく透明に近いブルー』とおなじ76年ですね。学生運動の時代が終わって若者文化が消費社会に向かう流れがわかりやすく出ている。この「政治的な紛争が終わったあとに若者たちがアメリカ的な消費文化に向かっていく」という流れは他の国でも見られます。たとえば、私が2000年頃に韓国のソウルに行ったとき、まるで80年代の東京みたいだなと思いました。70年代から80年代に移り変わるころに中学生や高校生だった私たちの世代からすると、上の世代のなんだか暗くてよくわからない学生運動みたいなノリがなくなって、『POPEYE』を読んでハンバーガー食べてコカ・コーラを飲んでほんとにハッピーという雰囲気がありました。そして村上春樹は、中身はさておき、形式としてハンバーガーやコカ・コーラに近い小説だった。

円堂:経済的なことで言えば、1979年はアメリカで『ジャパン・アズ・ナンバーワン』(エズラ・ヴォーゲル著、CCCメディアハウス)という本が出てヒットした年でもありました。日本経済が上り調子で、国外でも「日本的な企業経営はすごいぞ」ともてはやされた時代ですね。YMOもそれと同期するかのように海外進出しました。つまり、日本製の車や家電がバンバン売れるのとおなじようにテクノを売っていこうと。そんな勢いの一端がやがて80年代後半にバブルにつながっていく。

仲俣:10年ほど前に翻訳が出た『すべては1979年から始まった』(クリスチャン・カリル著、草思社)という本も思い出されます。この年に世界でなにが起きたかというと、いわゆる「新自由主義」につながるイギリスでのサッチャー政権誕生であり、いまのイラン戦争にまで尾を引くホメイニによるイラン=イスラーム革命です。「現代がいつから始まるか」を考えるときの大きめの線がこの年に引かれる。

 何度か言ってきたように、『風の歌を聴け』では70年代的な闇を引きずる鼠とそこから一歩抜け出す消費社会的な軽さのある「僕」という対比があります。最後にひとつだけ指摘しておくと、『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』(講談社文庫)へと続く「鼠三部作」のなかで、鼠の言葉遣いが変わっていくのがおもしろい。鼠は、『風の歌を聴け』では自分のことを「俺」と言い、相手のことは「あんた」と呼んでいます。でも、『羊をめぐる冒険』で鼠から送られてくる手紙では「僕」と「君」になっているんです。鼠が脱色されていっている感じがして、この変化は見逃せない。

円堂:おもしろいですね。そもそも昭和50年代文芸では、「僕」がひとつの大きなトピックでした。『限りなく透明に近いブルー』も地の文は「僕」だし、三田誠広『僕って何』や栗本薫の『ぼくらの時代』(講談社文庫)といったタイトルに「僕」が入る小説が多く読まれた。村上春樹も主人公が「僕」であることに大きな意味がありました。またまた糸井重里との対談での発言になりますが、春樹は「“僕”がいちばん“I”に近い感覚だと思っている。戦後民主主義的な感じなんだね」と言っています。そのあたりから彼が言おうとしていたニュアンスが伝わるかなと。

仲俣:戦後民主主義か。そうなるとその前はなんだったんでしょうね。

円堂:厳密に考えると時代は前後してしまいますが、仮想敵はやっぱり学生運動の「われわれは!」みたいなノリなんでしょう。当時すでに大作家だった大江健三郎に『われらの時代』(新潮文庫)があって、それに対してさきほど挙げた『ぼくらの時代』がくるわけです。ちなみに春樹の『1973年のピンボール』も大江の『万延元年のフットボール』(講談社文芸文庫)のもじり。いずれにせよ、運動で呼びかけるときの暑苦しい「われわれ」に対して、そこから切り離したものとしての「僕」があるという流れで村上春樹は出てきた。

仲俣:つまり「個」ということですよね。集団で連帯して目指していたなにかの幻想が敗れて、結局拠点として切り詰めて残るのが「僕」だったと。ダブル村上のその後も含めてここからなにがどう展開していったかは別にあるとして、やはりスタート地点を考えてみるのはおもしろいですね。

■関連情報
『「昭和50年代文芸」を読む 第3回 高橋源一郎『さようなら、ギャングたち』』
登壇者:円堂都司昭&仲俣暁生
価格:会場2,000円(税込)、オンライン1,000円(税込)
日時:2026年8月21日(金) 19:30~
場所:東京都港区赤坂6-5-21「双子のライオン堂」
詳細:https://peatix.com/event/5070263

関連記事