『死ねばいいのに』奈緒が演じる主人公、京極夏彦の原作では不作法な青年だったーー『姑獲鳥の夏』京極堂にも通じる役回りとは?

 金井純一監督で7月3日に公開された映画『死ねばいいのに』は、京極夏彦が2010年に発表した同名小説を原作としている。殺された鹿島亜佐美についてある人物が、生前に彼女とつきあいがあった人々に話を聞いて回る物語だ。しかし、映画版と原作小説では大きな違いがある。亜佐美の関係者を訪ね歩く主人公に関し、映画では奈緒が渡来映子という役を演じるが、もとになった小説ではその人物は渡来健也という男性なのだ。京極の原作では、この青年のキャラクターが物語のトーンを決定している。

小説版の『死ねばいいのに』(講談社)

 小説『死ねばいいのに』では、死んだ亜佐美のことを聞きたいと、派遣社員だった彼女の上司、隣室に住み友人だったという女性、亜佐美を情婦にしていたヤクザ、彼女の母親、事件を担当する刑事といった関係者を健也が訪れる。この青年は記者として取材しているわけではないし、誰かに依頼された探偵でもない。かといって亜佐美の親族とか恋人というわけでもない。尋ねられた側は健也に亜佐美との関係を問うが、彼は彼女と4回くらいしか会ったことがないという。生前の亜佐美と交流があった人や彼女が死んだ事件を追い続けている人にしてみれば、その程度のつきあいしかなかった青年が、なぜ死んだ彼女の話を聞きたがるのか理解できない。歓迎せざる客である。

 しかも健也は、人にものを聞く態度ではない。喋り口調は乱暴だし、敬語など使わない。ただ、思ったことをすぐ口にする。当然、相手は怒る。だが、「肩書きも学歴もねぇ馬鹿だって、俺は。大体そんな怒ることないじゃないすか。そっちこそ何なんすか」、「ほら、俺頭悪いから。微妙なこととか理解しねぇし。気分悪いすか」などといい返す。怒鳴りつけようが、理屈で諭そうが、彼は引き下がらない。ヤクザに凄まれ、胸倉をつかまれて揺すられても「俺みてえなのは面倒臭えと俺でも思うし。当たり前のこと知らねえ奴ってうぜえっていうか、来ンなって思うの当然だから、怒鳴られても仕方ねえけど」などと喋り続ける。ついにヤクザの逆鱗に触れて一発殴られてもなお黙らず、亜佐美のことを問い続けるのだ。

 ある特定の人物に関し、様々な関係者の証言を集める。関係者一人ひとりが感じていた人物像にはいずれも違いがあり、その人間の多面性、底の知れなさが次第に浮かびあがってくる。そういう構成をとる小説のパターンがあり(有吉佐和子『悪女について』とか)、関係者各人との対話を連作短編形式でまとめた『死ねばいいのに』も当てはまる。ただ、本作の場合、答えたくないのに亜佐美との関係をしつこく聞かれた者が、健也との押し問答を繰り返すうちにいつの間にか自身のことを語り始めている。いかにがんじがらめの立場にあるのか、自分にはどうしようもないのだと、初対面の青年にもらしてしまう。すると、この言葉を投げつけられるのだ。

「死ねばいいのに」

 いわれた相手だけでなく、読者もギョッとする瞬間である。亜佐美の関係者と健也の対話劇では、そのようなやりとりが繰り返される。

 かつては、人気芸人コンビがツッコミの一種のように「死ねばいいのに」というフレーズを用いた時期があった。文脈から想定される価値判断以上に極端な言葉を持ち出すその唐突さが、笑いを誘ったのだ。だが、近年では、芸人がべつの芸人に向けSNSで「死んでください」と投稿したことが問題視され、テレビから退場した。時代が移って社会の倫理意識に変化があったのである。これらは、不特定多数が目にするテレビやSNSの出来事だった。

 一方、『死ねばいいのに』は決めのフレーズの強烈さはそれらと共通するものの、誰かをダシにして不特定多数の観客の笑いをとろうとするものではない。小説の各話はみな、基本的に1対1の対話として書かれている点が異なる。無学で口の聞き方を知らない健也に訪問された側は、なんでこんなヤツの相手をしなければいけないのかと思う。彼らは、自分の知的優位のようなものを信じているし、最初は上から目線で健也を見ている。だが、やりとりを続けるうちに、気づけば自分の方がなにやら追いこまれている。あげくの果てに「死ねばいいのに」なんていわれるのだ。彼らは、己がしてきたことを自覚させられ、いわば自分の責任と直面させられる。ここには、相手の犯行を名探偵が見抜き罪を指摘するのと近い、対決の図式がある。

 さかのぼれば京極夏彦は、初期にデビュー作『姑獲鳥の夏』から始まる百鬼夜行シリーズで作家としての人気を確立したのだった。同シリーズでは、古本屋を営み陰陽師でもある京極堂こと中禅寺秋彦が、複雑な難事件を次々に解決していた。様々な学問に精通した彼は、豊富な知見を活かして謎を推理するとともに、事件関係者がとらわれていた思いこみを解いていく。中禅寺はその行為を「憑物落とし」と称した。

 豊かな教養で弁じたてる中禅寺と、無知でチンピラそのものの不躾な喋り方をする健也では対照的だ。だが、対話することで相手の固定観念を揺さぶり、ひびを入れて壊すという意味では、健也にやっていることも「憑物落とし」に近いだろう。しかも『死ねばいいのに』の場合、最初は馬鹿にされていた側だった不作法な青年が、やがて相手の急所を突くという立場の逆転が面白い。加えて最終話では「死ねばいいのに」のフレーズの意味あいが変転し、隠されていた真の怖さが明らかになるのだ。この小説には、人間のわりきれない不気味さが描かれている。

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