高杉晋作「面白きこともなき世を面白く」の“下の句”に込められた想いとは? 幕末の女流歌人の人生を描く『きみがなきあと』

 いわゆる「幕末」――開国から「明治維新」に至るまでの約10年間。幕府と会津などの親藩、天皇を中心とした朝廷、さらには薩長土肥といった雄藩などの諸勢力は、今後の国の在り方をめぐって離合集散を繰り返しながら、そのたびに多くの血が流されてきた。朝令暮改で覆される藩是。この時代、「正しさ」は、すっかり迷子になっていた。この国の行く末は、果たしてどうなるのか。木内昇の小説『きみがなきあと』(講談社)は、そんな動乱の時代の空気感を、周縁に位置するひとりの女性を通じて描き出す、珠玉の長編小説だ。

 主人公は、野村望東尼(ぼうとうに)――幕末の女流歌人であり、勤王家としても後世に名を残している人物だ。50歳も過ぎた頃、長らく連れ添った年上の夫を看取った「モト」は、得度して「招月望東禅尼」の名を得るも、ひょんなことから勤王家たちと交流するようになり、やがて彼らの支援者となる。今日では「勤王家の母」「女傑歌人」とも称されている彼女。しかしながら、本作が描き出す「望東尼」=「モト」の姿は、それらの称号が喚起する「強くて迷いのない」イメージとは、かなり異なるものとなっている。彼女はいつも迷い、悔い、祈りながら、自らの歩むべき道を、必死で見出そうとするのだった。

 「きみがなきあとよりかれし秋草は 生かへりきて花さへぞ咲く」――流れる月日の速さに戸惑いながら、福岡・平尾の草庵で、ひとり嘆息する日々を送っていたモトは、あるとき思い立つ。夫婦の歌の師匠であり、現在は大坂に暮らす「大隈言道」のもとを訪れるのはどうだろう。夫の死を直接伝えることはもちろん、夫の歌集を世に出す相談もしたい。それが夫の供養にもなるのではないか。大坂は遠いけれど、残り少ない人生、会いたい人に会い、見たいものを見たい。そう、はるばる大坂まで行くのであれば、やはり京にも足を伸ばして、あちこち見て回りたい。モトはにわかに、生気を取り戻す。

 かくして、遠路はるばる大坂までやって来たモトは、馴染みの商家に身を寄せながら、案内役として壮年の手代「馬場徳次郎(文英)」を紹介される。物静かで頼りなく見えるも、得意先である公卿はもちろん、近頃勢いづいている勤王家たちにも顔が利くなど、幅広い交流を持った人物なのだとか。「桜田門外の変」で大老・井伊直弼が討たれて以降、刃傷沙汰が続くなど、不穏な空気が漂う京の町を歩いても、彼と一緒ならば安心なのだとか。そして、彼を通じてモトは、福岡藩を脱藩した勤王家「平野国臣」と、偶然遭遇することになる。

 その第一印象は、お互い散々なものだった。勤王家に良いイメージを持っていなかったモトは、自分よりもはるかに年下の平野に、面と向かって言われてしまうのだ。物事を深く知ろうともせず、ただ非難するだけならば、承服しかねると。憤懣やるかたないモト。しかし、福岡に戻った彼女は、たしかにそれまで知ろうとしてこなかった彼らの「大義」と、この国が置かれている「情況」について、ひとり学び始めるのだった。やがて、福岡藩の藩吏である「喜多岡勇平」や、筑前勤王党の「月形洗蔵」とも交流するようになったモトは、あるとき月形から「谷梅之助」なる人物を匿うことを依頼され、それを引き受ける。月形に連れられて、モトの草庵へとやって来たのは、散切り頭に藩士らしからぬ着流し姿のひどく不愛想な若者――偽名を使って長州から逃れてきた「高杉晋作」だった。

 誰彼構わず不遜であり、不貞腐れた童のような態度を取りつつも、「玻璃のごとく繊細に見えることもあれば、獰猛な野獣のごとく危うく感じることもある」自分より30以上も歳の離れた不思議な男・高杉を、モトは面白く思う。その一方でまた、高杉のほうも、周囲の者たちですら戸惑う突拍子のない話を、にこやかに聞いてくれる彼女に心を開き始める。そう、周囲の勤王家たちから「母のような存在」と言われるたびに、どこか釈然としない表情を浮かべている彼女のことを――「誰かの妻でも母でもなく、モトというひとりの人として、歩むべき道を見出そうとしているような凛とした気風を、高杉は面白いと思ったのだ」。そしてあるときモトは、高杉が何気なくもらした「そねぇに言うたら、モト、おぬしもわしの同志じゃけぇ」という言葉に、弾けてしまいそうな戸惑いを覚えると同時に、総身の血が賑やかに躍り出すような感覚を得るのだった。

 そう、本作は「勤王家の母」の物語でも「女傑歌人」の物語でもなく、不確かに流れ続ける時間の中で、偶然誰かと出会ってしまうことの意味――その「偶然」を引き受けて、揺らぎながらも、それを自らの「運命」としてゆく感情の変遷を、ていねいに描いた物語なのだった。高杉が再び長州に戻ったあと、公儀による長州征伐がいよいよ始まろうとする中、福岡藩はそれまでの藩是を翻し、勤王家たちの弾圧に踏み切った。月形は斬首、御年60を超えていたモトは、島流しの憂き目に遭ってしまう。しかしながら、彼女の物語はそこで終わらない。その後も数奇な運命を辿りながら、モトは再び高杉と相まみえ、その最期を見届けることになるのだった。

 高杉が最後に詠んだ歌として、現在も広く愛されている「面白きこともなき世を面白く」――病床の高杉から、その歌に下の句をつけてくれてと乞われたモトは、即座に詠んで聞かせるのだった。「棲みなすものは心なりけり」と。この世の中をつまらないと思うか面白いと思うかは、すべてその人の心次第なのではないか。誰かとの出会いを「偶然」と思うか「運命」と思うかは、その人次第であるように。そう、いくつになっても訪れるであろう「偶然の出会い」がもたらせるものは、何も「恋愛感情」に限った話ではないのだ。「同志」――ともに過ごした時間の多寡にかかわらず、そう呼び合えるような人が、果たしてどれだけいるだろうか。

 高杉の死後、モトは夫が逝ったときに自分が詠んだ歌を思い出す。「きみがなきあとよりかれし秋草は 生かへりきて花さへぞ咲く」。しかしながら、その歌が放つ滋味は、かつてのそれとは、まったく異なるものとなっているのだった。流れる月日の速さに戸惑うばかりだった自分は、もはやそこにはいない。一度は枯れたと思った秋草は、いつの間にか以前とは違う色の花を、モトの心の中に咲かせているのだった。

 50歳を過ぎてからも訪れる、ひとりの女性の「転機」の話として、あるいは予想外の出来事が次々と巻き起こる「幕末史」として、本書を読むことは可能だろう。しかしながら、それ以上に大事な「何か」が、この小説には描かれているように思うのだ。同じく「正しさ」が迷子になっているように思える昨今、私たちは何を「よすが」として生きていくべきなのか。この物語が射程するものは、思いのほか深い。性別問わず、幅広い年代の人に読んでもらいたい一冊だ。

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