原田マハ『本日は、お日柄もよく』なぜロングセラーに? “仕事小説”の傑作として輝き続けるワケ

 原田マハの『本日は、お日柄もよく』(徳間文庫)が売れ行きを伸ばし、累計85万部を突破したという。

 2010年に単行本が刊行された際に話題を呼び、文庫化した後もテレビドラマ化などで注目を集め、既にロングセラーとなっている作品ではあった。それが何故このタイミングで売れ行きを伸ばしているのか。版元のリサーチによると、ThreadsなどのSNSで再び注目を集めているようだ。本稿では『本日は、お日柄もよく』刊行当時の状況にも触れながら、現在はどのような切り口で鑑賞できるのかについて考えてみたい。

 まずは簡単に本書の内容を紹介しておこう。語り手の二ノ宮こと葉は「トウタカ製菓」の総務部で働く会社員だ。こと葉は思いを寄せていた幼馴染の厚志の結婚式で、久遠久美という女性と出会う。久美は大勢の出席者を感動に誘う素晴らしいスピーチを披露し、こと葉も久美の紡ぐ言葉に心を掴まれる。久遠久美はスピーチの原稿を作成し、話し方のトレーニングまで行う人物として名高い存在で、彼女に魅了されたこと葉は弟子入りしてスピーチにまつわる仕事に深く携わることになる。

 『本日は、お日柄もよく』の単行本が刊行された2010年は、仕事小説と呼ばれるジャンルが隆盛し始めた時期に重なる。2010年代前半における仕事小説の動きをざっとまとめておくと、辞書編集を題材にした三浦しをんの『舟を編む』(光文社文庫)が2011年に刊行され、その翌年に本屋大賞を受賞。この他にも有川浩(現・有川ひろ)の『空飛ぶ広報室』(幻冬舎文庫、単行本は2012年刊)や宮木あや子の『校閲ガール』(角川文庫、単行本は2014年刊)など、組織内の専門部署や専門職をテーマとした仕事小説が注目を集めていた。また、坂木司『和菓子のアン』(光文社文庫、単行本は2010年刊)や高殿円『トッカン―特別国税徴収官―』(ハヤカワ文庫JA、単行本は2010年刊)など、ミステリの分野でも仕事小説の要素を備えた作品が人気を得る傾向が強まっていた。

 これらの作品の多くに通ずるのは、自己肯定感が低い、あるいは思い通りにいかない人生に嘆く主人公が、専門知識や技能を要する仕事に触れることで新たな生きる道を切り拓くという、傷ついた個人の回復が主題になっていることだ。原田マハの『本日は、お日柄もよく』も同様で、主人公の二ノ宮こと葉がスピーチの仕事を久美から学ぶことで徐々に変化していく様が描かれている。小説の序盤で久美はこと葉に言葉を扱うセンスがあることを見抜く。主人公自身がそれまで自覚していなかった才能に目覚め、成長していく過程を物語の柱に据えるのは、2010年代前半に隆盛した仕事小説の特徴の1つである。折しも2000年代後半に起こったリーマンショックで経済の停滞は一層深刻になり、労働を巡る所々の問題が表面化していた時期でもあった。だからこそ個人が輝ける場を見出し、仕事で才能を発揮していく主人公を描く仕事小説が2010年代前半に支持されたのだろう。まさにそうした物語が求められた時代を象徴する小説として『本日は、お日柄もよく』は多くの読者の心を掴んだのだ。

 と、ここまでは単行本刊行当時の社会状況や文芸シーンを踏まえた分析である。では『本日は、お日柄もよく』が2020年代後半を迎えた現在“も”読者の支持を集めているのは何故なのか。本書を改めて読んだ時に感じたのは、言葉を扱う仕事への興味だけではなく、言葉の持つ力とは何か、という根源的な問いかけが込められているということだ。『本日は、お日柄もよく』は結婚式の挨拶から政治家の代表質問まで、様々な舞台でのスピーチが描かれる。だが、いずれのスピーチを読んでも感じるのは、本当に人の心を動かすのは「強い単語」「強いフレーズ」ではなく、言葉の連なりから生まれるニュアンスやリズムがもたらす感動ではないか、ということだ。それは容易に言葉が切り取られ、威勢の良いフレーズだけが拡散される時代にあって、『本日は、お日柄もよく』における言葉の連なりで感動させるスピーチはむしろ貴重なものにすら思える。考えてみれば本書の単行本が発売された2010年はSNSが発達し始めた時期ではあったが、本書には“バズる”が重要視される社会の面影はまだ見えない。(Youtubeを利用する場面はあるものの、SNSの存在感がそこまで強くないように見受けられる)『本日は、お日柄もよく』が現在再び売れ行きを伸ばしているのは、“バズり”で言葉が切り取られていく社会になる以前の、言葉の連なりで感動できる時代の名残があるからではないだろうか。

■書誌情報
『本日は、お日柄もよく』
著者:原田マハ
価格:935円
発売日 ‏ : ‎2013年6月7日
出版社:徳間書店

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