「整形顔」が流行する背景とは? 速水健朗が考える、整形手術時代のポップカルチャー

 ライター・編集者の速水健朗が時事ネタ、本、映画、音楽について語る人気ポッドキャスト番組『速水健朗のこれはニュースではない』との連動企画として最新回の話題をコラムとしてお届け。

 第37回は、整形手術時代のポップカルチャーについて。

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なぜ「整形顔」が流行したのか?

 昨今は、いかにも整形しましたといった「整形顔」にあえて寄せるのが流行しているようだ。かつては存在した、整形だとバレないようにという意識が今はなくなり、それを隠さないようになっているのだ。

 なぜそうなったか。まず整形がカジュアルになった。これは、「切らなくていい」整形のバリエーションが増えたからだ。ボトックスや脂肪注入、無切開フェイスリフトといった施術はメスを入れないため心理的な抵抗が低い。そして、整形は若年層へと浸透した。未成年には親の同意が必要だが、その親世代こそが「小悪魔ageha」前後の価値観を持つ層であり、10代への整形を「ご褒美」として認める文化すら生まれている。整形そのものへのコンプレックス自体が薄れてきた。結果として、整形を隠す理由も弱まった。

 そして、次に流行のサイクルが早くなっている。少し前まで涙袋を強調する「地雷系」が流行だったが、すでに古いとされる。短期間で技法や「理想の顔」が入れ替わるのは、最新の整形を積極的に試すインフルエンサーの存在が大きい。インフルエンサーたちは、どのパーツはどの医師が得意かという情報を共有し、互いに競い合うことで常に新しい流行を生み出す。誰もがこうしたインフルエンサーの手術結果の写真を持って、同じ医院に手術を受けに行く。その中で、「整形顔」はむしろ憧れの対象になっている。

 皆が同じ顔になることを恐れなくなっているのは、まずは写真の加工フィルターの影響が大きい。より多く再生される顔の傾向がデータとして蓄積され、それに寄せたフィルターの加工が流行する。つまり、SNSのアルゴリズムが、美的基準の均質化をもたらした。

 重要なのは、画像加工テクノロジーがまず先行し、美容整形がそれを後追いしたという点である。アプリのフィルターが先に「完成図」を提示し、それを再現しようとして、現実の加工=整形を人は試みるようになった。この構造は、80年代にジャン・ボードリヤールが論じたシミュラークルの世界を思わせる。現実社会からオリジナルとコピーの区別が曖昧になり、コピーを参照したコピーが広がっていく。その状態が、美容整形という領域で実現しているのである。

 にじほさんという、日本でも有数の有名キャバクラ嬢がいる。彼女には「無加工顔面エース」という称号が与えられている。彼女は、有名な格闘家が熱を上げていることで知られるようになり、格闘技大会の会場でカメラに抜かれて、その美しさで有名になった。つまり、自分のインスタやSNSでアップされる写真は、加工が施されているのが当たり前。でも、彼女の顔は、それがなくとも美しい。だから「無加工顔面エース」と言われている。

 とはいえ、彼女のTwitterを見ると、ボトックスなどの各種美容整形をやっている様子を隠してはいない。むしろPR(案件)として表にしているし、「ダウンタイム中」とも公言している。つまり、フィルターなしで十分に盛れているという評価が「無加工顔面エース」の意味にはあるが、リアルでいじっていることは「加工」の内には入っていないということだ。

 これが逆転現象に見えているのは、僕だけだろうか。例えば、この構造は、ボーカロイド曲を人間が後から歌いこなすようになった現象にも似ている。最初は譜面的に人が演奏不可能だった曲をボカロに歌わせていたが、次第にYOASOBIやAdoのような存在が、ボカロのようにそれを歌いこなすようになった。この現象に近い。

 ちなみに、僕がよく見ているインフルエンサーの「美容整形ちゃん」は、10万人近いフォロワーのいるYouTuber。彼女は、最新の整形事情を取材して、自ら試してみるというタイプの情報発信をしている。彼女は、6年前に動画参戦した頃、すでに2000万円を費やしていたという。そして、そこからもありとあらゆる手法を試している。

 彼女は、自分が何に悩んでいるのかも公にしている。整形をする人たちは、部分的に気に入らない場所を直したい。一方で、それを専門医に相談すると、全体のバランスや相互作用を考えた方がいいのだという返答が返ってくる。整形手術の失敗の多くは、部分最適と全体最適の食い違いから発生するのだ。この掛け違いが、整形手術の奥深さで、常に新しい手法が求められている構造の根本なのかもしれない。

 ちなみにこの「美容整形ちゃん」の悩みは、凡百の我らとはレベルが違う。目と鼻の位置の違和感といったものではなく、顔と頭蓋骨の相性がそもそも合っていないのだという。視点が高次元である。このチャンネルは、最近の僕のもっともお気に入りのもので、ずっとメンバーシップ登録をすべきかどうか迷っている。メンバーシップのコンテンツには、「輪郭整形のダウンタイム183日間を全て公開します。」という項目がある。これは、見たいような見たくないような絶妙なラインだ。

 さて、コピーとオリジナルの問題を、ボードリヤールよりも早く論じたのがヴァルター・ベンヤミンである。彼は20世紀初頭、大量生産の時代には芸術もまた大量生産になると指摘した。絵画は一点物だが、写真や映画は本物同然のコピーを無数につくり出す。それにより芸術の受け手は限られた階層から大衆へと移り、作品を所有する意味も変質する。カメラのシャッターは、画家のような意図を必要としない。その意図なき作品でも作品と呼べるのかという問いも含まれていた。

 大衆化した芸術の世界では、むしろポップスターが生まれてくる。これがベンヤミンが『複製技術時代の芸術』で示した結論の一つである。彼がこの論考を書いていた頃には、すでに映画スターのルドルフ・ヴァレンティーノ(1895〜1926年)のような大スターが登場していた。ベンヤミンは、大量のコピーを可能にした量産型芸術の時代に、スターがどのような構図で生み出されていくのかを捉えようとしていたのである。

 人の顔が、同じように人工的なものへと寄っていく。こうした現実を、我々はどう受けとめるべきか。「美容整形ちゃん」は、皆が同じ顔になることについて、誰もそれほど恐れていないのではないかと指摘していた。おそらく、その通りなのだろう。そして、この感覚の変化は、複製技術時代の芸術が登場し、急速に普及していた20世紀初頭の状況ともどこか似ている。

 ちなみに、現在の整形熱にはコロナ禍が拍車をかけた。長期間人に会わない生活が続き、その間に少し顔を変えても気づかれにくい環境があった。また「お家時間」が増え、整形情報を発信するインフルエンサーに触れる機会も増えた。とはいえ、整形の件数に関する統計データは、専門家でさえ正確には把握できていないらしい。世界的には韓国、アルゼンチン、ブラジル、アメリカがトップ4で、日本は5番目の整形先進国とされる。ただし顔の整形が中心なのは東アジア、つまり韓国と日本に限られ、それ以外の国では豊胸などが主要な関心領域だという。

 東アジアには顔へのコンプレックスが特有の問題としてあり、それゆえ顔面に特化した整形技術が韓国と日本で発達してきた。次世代の「複製技術時代のポップカルチャー」は、このガラパゴスな領域から生まれてくるような気がしてならない。
 

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