西暦がタイトルの小説といえば? 米津玄師の「1991」から考える、西暦が作品に与える力
10月10日から全国劇場で上映されている実写映画『秒速5センチメートル』の主題歌は、米津玄師の「1991」である。これは主人公・遠野貴樹と転校生・篠原明里が出会った年が1991年であり、監督の奥山由之、また、米津玄師の誕生年である1991年にちなんだタイトルだ。ほかにも1991年当時の空気を知っている人にはさまざまなイメージを喚起させるタイトルだろう。
「他に西暦の曲知りませんか」これはXで見つけた、とある画像付きのポストの一文だ。その画像をみてみると、先ほどの米津玄師「1991」だけでなく、羊文学の「1999」など、西暦のタイトル曲が並んでおり、筆者も思わず、「ほかにもプリンスの『1999』があるな」などと考えてしまった。西暦がタイトルになっているポピュラー・ミュージックはまだまだありそうだ。
では、西暦がタイトルになっている小説作品は何があるのだろうか? すぐに思いつくのはジョージ・オーウェル『1984年』だろう。指導者<ビッグブラザー>を頂点とする一党独裁の監視社会を描いたディストピアSFの古典的名著だ。しかし、『1984年』というのは邦題で、実はこの作品の原題はNineteen Eighty-Fourであり、数字4桁のタイトル作品ではないのだ。ただ、SF作品というのはヒントかもしれない。
そこで考えつくのはアーサー・C・クラークの「宇宙の旅シリーズ」だろう。中でも邦題『2001年宇宙の旅』で知られる2001: A Space Odysseyはスタンリー・キューブリックの映画でも有名だ。しかし、このタイトルには副題がついている。純粋に西暦だけの作品はないのだろうか?
チリの作家、ロベルト・ボラーニョには『2666』という作品がある。謎の作家アルチンボルディを追う研究者たちの旅路を起点に、メキシコ北部の女性連続殺人事件、哲学教授や記者の運命が交錯し、20世紀の暴力と悪の歴史を巨大なスケールで描き出す、五部構成の超大作だ。ただし、これも明確に西暦を意味するような数字ではなく、悪魔の数字「666」を想起させる文字列のようだ。西暦だけをタイトルとしている作品は実在しないのかと思ったとき、辿り着いた本がある。
ホラー作家の巨匠、スティーヴン・キングは『1922』という小説を書いている。これはFull Dark, No Starsというキングの短編集に収められたクライムホラーだ。舞台はいまからおよそ100年前の1922年、北米中西部ネブラスカの農夫ウィルフレッドは、自身が経営していた広大な農場を売り払って都会へ出たがる妻アルレットを引き止めるため、息子ヘンリーを巻き込んで殺害し、遺体を井戸に隠して失踪を装う。しかし罪悪感は2人の心身を侵食し、幻覚と恐怖に追い詰められ、父子は避けられない破滅へと転落していくーー。「アメリカンドリーム」であるはずの農地所有、しかし土地に執着するあまり、かえって広大な農村の中で孤立し、精神的な破滅がもたらされる物語だ。Netflixで映像化もされているのでご存知の人も多いかもしれない。
西暦がタイトルになっている海外小説は、ほかにもニクラス・ナット・オ・ダーグのストックホルム3部作『1793』、『1794』、『1795』を見つけることができた。特に『1793』は「このミステリーがすごい!」2020年海外編で第8位に入っている。フランス革命の余波が広がるストックホルムが舞台の歴史ミステリーで、本国スウェーデンでは大ベストセラーとなっている。
国内の小説では、西暦がそのままタイトルになっている作品は何があるのだろうか。これを見つけるのはなかなか難しい。検索のハードルを下げると、村上龍『69 sixty nine』や村上春樹『1973年のピンボール』のような作品はすぐに見つかる。学生運動や高度経済成長といった熱のさなか、またはその終わりの時期の温度感をタイトルで伝えている。
音楽作品と文学作品で、このように西暦タイトルの担う役割が異なるのは興味深い。米津玄師の「1991」は、自身の生まれ年に根ざした“私的ノスタルジー”を呼び起こす一方、キングの『1922』にはアメリカ農村社会の閉塞感といった“社会的・歴史的記憶”が刻まれ、クラークの作品であれば“未来への想像力”が託される。
これからの小説には、いったいどんな「年号」が選ばれ、どんな物語が託されていくのだろうか。西暦という最もシンプルな記号は、まだまだ新しい物語を生み出す可能性を秘めている。