『爆弾』佐藤二朗の怪演が光る“スズキタゴサク”、なぜ観客の心を掴む? “社会の闇を映す鏡”としての存在感
※本記事は『爆弾』の内容に触れる部分があります。未読・未視聴の方はご注意ください。
山田裕貴主演、佐藤二朗の怪演で話題を集める映画『爆弾』が大ヒットしている。公開から17日で動員100万人、興行収入14億円を突破し、密室の取調室で繰り広げられる心理戦、そして佐藤二朗が演じる謎の男“スズキタゴサク”の存在感が観客の心を強く掴んで離さない。
『爆弾』が生み出した映画独自の緊張感
本作では、400ページもある原作小説がほとんど改変されていない。説明を削ぎ落とすことで、取調室の空気の張りつめ方とタゴサクの“間”を最大限に引き立てた点が、映画独自の緊張感を生み出しているのだ。
それでも小説との違いはある。最も大きいのは、原作には物語を外側から見つめる「細野ゆかり」という女性の視点が存在する点だ。爆発事件を偶然目撃し、最初は恐ろしい事件にどこか興奮してしまう彼女の心の揺らぎが、物語の節目ごとに挟まれる。ゆかりは事件を“安全な距離から消費する側”の象徴でもあり、にもかかわらず終盤では勇気を振り絞って負傷者を助ける。このコントラストが、人間の中にある“残酷さ”と“善意”という相反する本性を描くうえで重要な役割を果たしている。
また、映画ではカットされた刑事・ラガー先輩や、過去の事件に傷を抱える刑事たちの背景が原作ではより掘り下げられ、タゴサクが彼らの心の弱さをどう利用していくかが丁寧に描かれており、小説ならではの内面描写が“爆弾事件”の意味をさらに重くしているのだ。
スズキタゴサクは何者か
では、「スズキタゴサク」とはいったい何者だったのか。原作では彼の過去が詳しく語られる。ホームレスコミュニティでの生活、身近な人間が襲われた事件で犯人扱いされ仲間からも排除される経験――社会の底からさらに突き落とされるような痛ましい履歴が、彼の人格を大きく歪めていったのだろう。
一部ネタバレになってしまうが、タゴサク自身は一連の爆弾事件を計画したわけではない。ではなぜ他者が企てた犯罪を、自らのものとして引き受けたのか。それは彼の歪んだ承認欲求と“ゲームへの陶酔”、そして同じく社会から疎外されていた「真犯人」への奇妙な共感があったからだろう。「スズキタゴサク」という怪物を演じることで、事件そのものを“自分の物語”へと書き換えようとしたのである。
さらに、スズキタゴサクには他者から憎悪や恐怖を向けられることに快感を覚えるという特殊な性癖があったことが示唆される。誰かに嫌われ、恐れられることでしか自己の存在を確かめられない。その倒錯した欲求こそが、彼の異常性の根源だ。豊かな語彙と読書家としての知性を持ちながら、その知性を「他者を操ること」へ向けてしまう姿は恐ろしくも魅力的である。映画ではローアングルを多用し、取調される被疑者という弱弱しい立場にもかかわらず“支配者”としての存在感が強調されていたのも印象的だった。
タゴサクは最後まで「自分は催眠術に操られた被害者だ」と主張する。これは単なる言い逃れではなく、“社会こそが自分を生んだ”という皮肉を帯びた揶揄にも見える。そして「スズキタゴサク」という名を歴史に残すこと…それこそが彼の最終的な目的だった。彼は恐れられることでしか自分を証明できなかったのである。
そして物語は続編『法廷占拠 爆弾2』へと続く。今度は「タゴサク事件」で父親を失った青年・柴崎奏多が裁判所を占拠し、「死刑をすぐに執行しろ。さもなくば法廷を爆破する」と宣言する。異常な緊迫の中、タゴサク自身が人質として巻き込まれ、痛めつけられながらもどこか喜んでいるかのような描写は、彼が“社会の闇を映す鏡”であることをまたもや際立たせている。
映画の怒涛のラストは、凄まじい緊迫感があった一方で、展開のスピードについていけなかった人もいたかもしれない。小説で登場人物の心情と行動原理をしっかりと把握することで、クライマックスの深みが理解でき、二度目の感動をもたらしてくれるはずだ。
■書誌情報
『爆弾』
著者:呉勝浩
価格:1,067円
発売日:2024年7月12日
出版社:講談社
レーベル:講談社文庫