朝井リョウ × 柳澤田実『イン・ザ・メガチャーチ』対談 「欧米の信仰復興と日本の推し活には共通点がある」

朝井リョウ『イン・ザ・メガチャーチ』(日経BP)

 朝井リョウの新刊『イン・ザ・メガチャーチ』(日経BP)は、あるアイドルグループの運営に参画することになった家族と離れて暮らす男、内向的で繊細な気質ゆえ積み重なる心労を癒やしたい大学生、仲間と楽しく舞台俳優を応援していたが、とある報道で状況が一変する女という三者を主人公に、ファンダム経済の功罪を描き出した作品だ。

 いわゆる“推し活“の宗教性に着目した本作は、宗教学者として“推し活“に言及してきた柳澤田実にとっても興味深く、さまざまな論点が見出せる小説だったという。

 朝井リョウと柳澤田実による、『イン・ザ・メガチャーチ』についての対談をお届けする。

人が何かにハマっていく時の危うさに肉薄した描写は見事

左、柳澤田実。右、朝井リョウ。

柳澤:『イン・ザ・メガチャーチ』をとても興味深く拝読しました。私自身も「推し活」を消費社会の宗教として分析したことがありまして、その内容をゲーム開発者向け会議「CEDEC 2024」で発表したところ、大きな反響があったんです。そこから“推し活研究者”のように見られることが増えたのですが、実のところ推し活を専門に研究してきたわけではなくて。ここ数年はキリスト教の、いわゆる保守派である福音派と言われる人々に関心を持って調査していました。彼らがまさに推し活のようなことをしていると気づいたことが出発点で、その観察に基づいて推し活について分析したんです。福音派は「信じる」ために様々な努力をするのですが、聖書にたくさん書き込みをしたり、ポストイットをしたりしてパーソナライズしたり、コーヒーを飲むときに「イエスと飲んでいる」ように振る舞ったり、推し活と似たようなことをする人もいます。

 ですから、朝井さんが推し活を扱うにあたって『イン・ザ・メガチャーチ』というタイトルをつけた勘どころの良さには本当に驚きました。推し活がメガチャーチを主催する福音派と構造的に似通っていることも、僭越ながら自分以外で指摘している人を見たことがなかったので、そのような捉え方をなさっていることに本当に感動したのです。書影が発表されたときにも「あっ」と思ってブックマークしましたし、関係する編集者の方々からもすぐ連絡をいただき、「関心が絶対に重なっているはず」と言われたのですが、本当にその通りでした。

 朝井さんの、人が何かにハマっていく時の危うさに肉薄した描写は見事で、一気に読んでしまいました。前のご著書の『生殖記』にも宗教が登場しましたが、朝井さんの宗教についての理解は、学問的に見ても正確だと思います。

朝井:私自身、『生殖記』と『イン・ザ・メガチャーチ』はかなり近いところにあるという認識なので、重なりを感じていただけてとてもありがたいです。柳澤さんは、推し活について書かれた小説『コレクターズ・ハイ』(講談社)の著者である村雲菜月さんと対談されていましたよね。『コレクターズ・ハイ』では対象に愛を注ぐことの光と闇が切り取られていましたが、私は数年前から、“推し活“と呼ばれる現象を切り口に、“今の時代、人間を動かす原動力とは何なのか“ということを書き表してみたいと思っていました。ただ、先程おっしゃった祭壇的なセットアップなど、様々な努力をもって“推し活“に励むことを良しとする今の社会で、その行為を別角度から書く不安もありました。たいへんな反感を買うかも、と。私はほとんどの小説をビクビクしながら書いているのですが、今作は特に怯えが大きかったです。でも、そういう時ほど書かなきゃいけないのかも、とも思います。むしろ自信満々に「みんな読んで!」って思いながら書いている自分って危ないよな、と。

 ところで小説の場合、その内容の解釈については「読み手の自由です」と逃げられる部分もあるのですが、柳澤さんのように専門研究として書く場合、意味を特定させ、意図をピント合わせする必要がありますよね。そういう意味では小説以上に難しいところがあり、10年前に宗教を書くのと今とでは、ビクビク度合いが違うのではないかと思いました。

柳澤:本当にそうですね。私もビクビクしています(笑)。推し活をすることが幸福やウェルビーイングに強く結びつくと推奨されているいま、自分の解説が水を差すような作業をしているのでは、という怖さや申し訳なさを感じることもありますね。朝井さんのキャラクター描写は残酷なほど克明ですけれど、同時に親近感を感じさせるので、どの登場人物に対しても、読者が身に覚えがある感覚を得ると思うのですが、研究だと対象を突き放しているような印象になりがちで、それは私の本意ではないので、朝井さんの書き方を参考にしたいと思いました。

自分以外の“現実”に労力を注ぐことが賞賛されにくくなっている

柳澤:メガチャーチについての日本語文献は少ないですが、朝井さんはどこから着想を得て、推し活をメガチャーチに結びつけることができたのですか?

朝井:私は昔から「人間と依存」の関係に関心があり、そのとき書いている小説がどんなものであっても、気になった関連文献を読むようにしているんです。依存を設計し尽くすという点では、それこそゲームなども研究対象として頻出しますよね。そうした調べ物をしたり、似た関心領域の友人と話しているうち、メガチャーチを知りました。確かに日本語資料が少なくて、ざっくりとした捉え方になってしまうのですが、メガチャーチの内部で行われていることを条件として抽出すると、日本の2,000~3,000席規模のホールで行われる音楽ライブやコンサートの熱狂と共通点が多いと感じたんです。若者を呼び込むために敷居を下げ、まず多くの人を集める。メガチャーチではその後、特定の思想の布教が行われたりするわけですが、同じ楽曲やフレーズにあわせて数千人が反応するというのは映像的には似た雰囲気がありますよね。それに、日本は国際的に見ても国土の割に数千人規模を収容できるホールが多いと聞きました。この狭い島国で大規模な全国ツアーが頻発しているという事実にも、メガチャーチ的な機能を感じたんです。

柳澤:今年の春と夏にアメリカに調査に行ったのですが、キリスト教の保守派を中心にここ数年信仰復興が起きていて、人種的にも包摂的な多様な教会が生まれています。ミレニアル世代のアフリカ系アメリカ人の牧師が率いる教会が拡大し、メガチャーチ化しつつある様子も目撃しました。若い世代が中心になっている欧米の信仰復興と日本の推し活は、コロナ禍以降に人々が生きている実感を求める現象として、共通点があるように思います。それが朝井さんが『イン・ザ・メガチャーチ』で書かれている「視野を一旦狭くする」こと、私の研究でいうところの「デボーション(献身)」や「コミットメント(参与)」への渇望ではないかと思うのです。視野を広くし、選択肢を増やすことを目指すように言われてきた若者が、逆に狭くしたい、選択肢を減らして「自分にとってのリアル(現実)はこれだけだ」と思いたいと願う動きなのではないかと。

朝井:保守側の多様化、すごく興味深いと同時に、なんであれ実際に行動力を発揮している場に若者が集うという話には非常に納得感がありますし、今作で書きたかったことに重なる部分があります。依存という言葉はネガティブに響きがちですが、コミットメントと考えると、エネルギーの向かう先は自分にではなく他者や外部になりますよね。人間は自分以外の何かのために生きることで幸福を感じる側面も持ち合わせていますが、今は自分以外の“現実”が流行っていないというか、自分以外の“現実”に労力を注ぐことが賞賛されにくくなっている雰囲気を感じます。その反動として“夢”を与えてくれるアイドルなどへの推し活に深くハマるという構造もあるのではないかと思います。

 同時に、その構造を自ら選び取り、その構造の内部に「いる自分」への誇り(ラップの“in the building”のニュアンス)も絶対に書きたかったんです。推し活を批判的にジャッジしたかったわけではなく、その場にしかない、それこそ甚大な行動力に満ちた命の輝きも描写したかったので、自ら選んで「ここにいる」という感覚をタイトルに込めたくて『イン・ザ(In the)・メガチャーチ』としました。

柳澤:誇らしさのこもったヒップホップのボースティングのノリなのですね。本当にそのセンスが素晴らしいです! 依存や中毒と呼ばれてきた現象を単純に悪いものとしないで、別の枠組みで捉え直す必要を私も感じます。推し活をネガティブに捉える背景には、近代的な「自己」理解の普及が大きいのかなと思います。一方で経済的な自己利益追求モデル(ホモ・エコノミクス)があり、他方で1960年代以降のアメリカ文化の影響下で “セルフラブ”、「自分を大切に」という考え方があります。これらのモデルが規範になると、他者に尽くすことは前時代的だということで「もっと自分を大切にしなよ」と批判されてしまう。自分のために計算高く生きる生き方が賢いとされる風潮も強いと思います。

 私はコミットメントについて研究するにあたり、経済学者のロバート・フランクの研究を参照しています。フランクによれば、自己利益追求モデル(ホモ・エコノミクス)が唯一の人間理解になると、人のより打算的な側面が引き出されるそうです。経済学を学ぶと性格が悪くなるという身も蓋もないフランク自身による研究結果もあります。自己利益追求モデルに基づいて生きることの虚しさや殺伐感に耐えられなくなっている人が増えているからこそ、推し活も一種の悲鳴のように出現しているように見えます。

 ただ、推し活はそれ自体が消費活動なので、経済活動の外部に出ることはできないですよね。だからこそ本当は宗教のような何か経済の外部の領域が必要だと思うのです。世俗化が進んだフランスでも、ここ1~2年は若者のカトリックの洗礼志願者が増えていて、こうした動きは世界各地で見られます。日本では宗教が機能しないとしたら、推し活以外に何が宗教の代わりになり得るのか考える必要があるようにも思います。

単一のレイヤーで全てを捉えることの危うさ

柳澤:ところで前作『生殖記』も非常に挑戦的な内容でしたが、読者の方々の反響はどうでしたか? 人間ではないものを主人公にすることで、進化論的なスケールでの語りが可能になっていて、本当にすごいなと感動したのですが、現在の私たちの文明の先にある絶滅の可能性も示唆されていたと思います。

朝井リョウ『生殖記』(小学館)

朝井:本を出すときは怯えましたが、それこそ「キノベス!2025」第1位など想定よりもポジティブな反響が多かった印象で、私はずっとそれが不思議だったんです。だけど、今のお話をうかがって、手前味噌ながら『生殖記』はある種、小説の世界の“別軸”として機能してくれたのかも、と思いました。『生殖記』では人類主体の善悪から外れた視点での語りを採用しましたが、その設定のおかげで、自著の中でも初めて書くような言葉がたくさん出てきてくれたんです。それが、この小説を交換不可能な場所に連れて行ってくれたのかもしれません。

柳澤:『生殖記』には「大きなマットを皆で運ぶとき、自分は手を添えるだけ」という表現がありましたが、比喩としても秀逸でした。こうした部分に読者は「わかるわかる」とリアリティを感じているのでしょうね。新たに出会った後輩との貴重な共通点に主人公が高揚する場面でも、いよいよロマンティックな関係にコミットメントすることになるのかな? と思わせつつ、結局は踏み込まないという匙加減が見事でした。

朝井:これまでフィクションの世界では、主人公が何かしらにコミットメントすることを決断するラストシーンが“ハッピーエンド”とみなされてきたように思います。個人的にその風潮を破壊してくれたと感じているのが村田沙耶香さんの『コンビニ人間』(文藝春秋)です。あの結末は読者によってハッピーエンドかバッドエンドか受け取り方がバラバラでしたし、あのラストによって日本の現代小説の幕の引き方の選択肢が広がったように私は思います。従来の倫理を一旦外して書くことへの勇気をもらえた作品で、『生殖記』にも影響があったと思います。特別に意識しない限り、フィクションって結局は「人類の存続」へ向かいがちだと思うんです。それが良い悪いではなく、自然とそちらへ流れるもの、というか。だからこそ、あのラストを提示したうえで世界中に拡がった『コンビニ人間』は本当に革新的な作品だと思います。

柳澤:人間の行動を進化論的に説明すると、生存という目的に全てが方向づけられてしまい、それこそ生殖は絶対的に正しいことになりますが、それだけだと人間が持つ複雑さやニュアンスが消えてしまう。でも同時にやはり私たちは生物でしかないというリアリティも私は大事だと思います。朝井さんの作品は、単一のレイヤーで全てを捉えることの危うさを描いていると感じました。

朝井:今、自分でも言語化できていなかった癖(へき)のようなものを言い当てられてびっくりしています。『生殖記』の割と前半で「ヒトは生まれた時点ですでに役目を終えている」という旨の文章を置いたのは、その後かなりグチグチと社会的な文章が続く予感があったからなんです。なので、最初のほうで一旦ものすごく動物的な文章を置いておいて、読者を解放したかった。人は文化や社会によって自由になろうともするが、同時に「生き物としての人間」でしかないという事実が与える解放感もある。その両方を、一冊の中で書きたかったんです。

柳澤:とてもよくわかります。「生き物としての人間」という問題は、反出生主義のような思想まで登場していることを考えても、今後ますます重要になるでしょうね。一人で推し活消費して、死んでいくような生き方が規範になるのか。他人との無償の繋がりを実現する場所が消費活動以外になくなってしまうのか。大袈裟ではなく人類の存亡が掛かっている問題だと思います。家族や生殖を巡る問題は米国の文化戦争でも最も重要なテーマです。キリスト教のように歴史的にも長く持続してきた宗教は、OSのように集団の行動原理を決定し、状況に合わせ自動更新するプログラムのように見えますが、この問題について更新されるのかどうか。日本も血縁共同体を土台に成り立ってきた集団であるのは間違いないので、それに代わる規範、文化を生み出せるのか、自分たちのOSをアップデートできるのか、興味深いです。

朝井:「OS」という名付け方、とても腑に落ちます。憲法改正に賛成か反対か、と問われると構えてしまいますが、憲法OSを更新するのに賛成か反対か、と問われると急に答えやすくなりますね。本当に名付け方一つで認識は変わるので、だからこそ表現にはこだわりたいところです。

多くの分野で同様の危機感が共有されている

柳澤:朝井さんが『イン・ザ・メガチャーチ』についてのコメントで、「自分は文学という教会に通い続けてきた」と書かれていたのが印象的でした。

朝井:小説は社会的に“よいもの”とみなされがちで、私は偶然そこに傾倒できただけだと思っているんです。もしも私がアダルトゲームのシナリオライターだったら、きっと新聞社からのインタビュー依頼はないでしょう。私にとっての小説は、読んでも書いても、いくらでも時間を吸い取ってくれて、視野を狭めてくれるものでもあるんです。私は「時間が早く過ぎること」は幸福の重要な尺度だと思っていて、小説の読み書きはその強度が高い。だから“小説という教会”という表現を使いました。そこにいれば安全――社会的に悪く言われない空間でもある。その安全さへの自戒も込めています。

柳澤:日本の現代小説は、宗教というとオウム真理教や統一教会などのカルト的なイメージに寄せがちですが、朝井さんはアメリカのメガチャーチを重ねることで、より普遍的な問題に開いてくださっていると思います。宗教を異物にしないで、人間の行動規範の一つとして捉えようとしている点に感動しました。

朝井:柳澤さんの訳書『リアル・メイキング』にも通じますが、因果が複雑なものを単純化しないことを心がけています。本というメディアは大量の文章を一つの物体に詰め込めるので、物事の因果を複雑なまま転写できる。そこが小説の強みだと思います。

柳澤:朝井さんの“複雑なものを複雑なまま書く”という姿勢には、何事も突き放さない優しさがあると思います。ところで本文には、人々が推し活にかけるエネルギーを、環境問題の解決など社会的に有意義な行動に接続する発想として「チャーチ・マーケティング」という言葉が出てきますね。

朝井:そのような提案をする登場人物が出てきます。諸刃の剣ではありますが、事実、コミットメントの深い人は“インプレッションの集め方”を知っていると感じます。どう発信すれば世間が注目するか、個人がどう訴えれば運営等の団体が動いてくれるか、そういうことを考え実践してきた経験知がファンダムにはある。それに加えて、良いと感じたものにはお金を払うという感覚も強いので、UI設計次第で寄付活動などに繋げられるかもしれない。

 例えば、「推しに直接振り込みたい」みたいな発信を目にすることがあります。ざっくり言うと「大量のCDという物質はいらないけれど、推しのためにお金は使いたい」みたいなことだと思います。ただ、本当に芸能事務所が何かしらの銀行口座を公開して「ここに直接振り込んでください」といっても心理的抵抗が発生するでしょう。でも、たとえば“CD1枚=1,500円”という単位で寄付できるUIにすれば、「10枚買った」という感覚で振り込みやすくなるのでは、と思うんですよね。音源は100円でDLしつつ、CD“単位”での寄付へ人々を誘導する――作中ではここまで詳細に書きませんでしたが、今後そのような研究を進める予定の学生の発言です。

柳澤:推し活により良いナラティブを与え、社会貢献に接続することは十分あり得ると思うのです。実際そのような慈善活動は実現していると思いますし、結果的に経済活動の外部、無償な活動にアクセスする可能性があるわけですよね。ただ推し活をしている人は、どこまでも自分と「推し」という自分の自意識の延長のなかに自閉しているように見えるのが少々気になります。1960年代以降のアメリカ文化はナルシシズムが強いと言われますが、ファンダム文化や現在の美容、健康ブームとも紐づいているスピリチュアルにもその傾向が見受けられますし、数年前から女性を中心に流行している“セルフラブ”もこれらのカルチャーと密接です。私が研究しているキリスト教福音派にも同様の傾向が指摘されていて、自分が良い気分であることを最善とするあまり、人生のなかの否定的な部分に向き合うことを避けがちだそうです。

 もともと“セルフラブ”は自由になるため、エンパワメントのための概念だったと思うのですが、“ホモエコノミクス(経済的人間)”と同様、どこまでも自己中心で他者性や外部がないという限界があるように思えて。自意識からの解放こそが、皆が本当に求めていることなんじゃないかな、と思っています。

朝井:昨年のベストセラーである三宅香帆さんの『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(集英社新書)も、人々が外部からの刺激に対応できなくなっている状況を描いていましたよね。多くの分野で同様の危機感が共有されているのだと思います。いまやセルフラブの概念さえもビジネス的に還元されていく状況にありますし、セルフラブの具現化ともいえる美容界隈、整形界隈の人々も、個人的には精神の安寧を得ているようには見えません。

 このような状況にある現在、我々が言葉でなにをどう名付けるべきなのかは難しい問題ですが、その逡巡や怯えを手放してはならないと感じます。今日、柳澤さんのような方に専門知と総合的な読みで本作を受け止めてもらえたのは嬉しいですし、希望を感じました。今日は本当にありがとうございました。

■書誌情報
『イン・ザ・メガチャーチ』
著者:朝井リョウ
価格:2,200円
発売日:2025年9月3日
出版社:日経BP

関連記事