社会学者・岸政彦が明かす、“人の話を聞くこと”の怖さと価値「聞き取り調査には暴力性もある。それでも耳を傾けるべきだ」
(ちくま新書)
「生活史」とは、ひとりの人間の生い立ちや人生の語りを聞き取る、社会学の質的調査のひとつであり、沖縄で30年にわたり聞き取り調査を続けてきた社会学者・岸政彦は、その第一人者といえる存在だ。岸は150人の聞き手希望者に自身の調査方法を伝え、彼らがそれぞれ150人の語り手に取材を行った。その成果として生まれたのが、『東京の生活史』『大阪の生活史』(いずれも筑摩書房)である。
いまも聞き取り調査を続ける岸が、今回「他者の話を聞く」ことについてまとめた新著『生活史の方法』(ちくま新書)を上梓した。曰く、聞き取り調査に「標準的な方法」は存在せず、しかもその営みには、常に語り手への暴力性が潜んでいる――。では、他者の人生に耳を傾けるとき、何を意識すべきなのか。そもそも「人の話を聞く」とは、どのような行為なのか。著述家・編集者の吉川浩満が岸に話を聞いた。
積極的に受動的になれ
吉川浩満氏(以下、吉川):新著『生活史の方法』を拝読しました。冒頭の『大阪の生活史』(筑摩書房)の語りの引用から一気に引き込まれました。
岸政彦氏(以下、岸):ありがとうございます。この語りでは、「お父さん何してたの?」と聞いたあとに、また「お父さん何してはった?」と同じことを聞いてます(笑)。
吉川:答えてくれないから(笑)。聞き取り調査の臨場感が伝わってきますね。岸さんはご自身の方法をいつ頃、どうやって確立されたのでしょうか。
岸:わたしは20代までずっと理論を研究していて、29歳でようやく調査を始めました。しかし、聞き取りをするにも師匠はおらず、体系的に学んだこともなかったので、ぶっつけ本番です。まだ若かったので、レコーダーを持ってとにかく人の話を聞きに行きました。わたしが心がけていたのは、自分の話はせず、質問も用意せず、とにかく相手の話を聞くことです。今でもこのやり方は変わっていません。
また、龍谷大学の「社会調査実習」という授業を担当したときのことです。学生たちに、いままで自分が試してきた方法を簡単に教えたところ、しっかりと調査をしてきてくれたのです。ここでわたしは、自分がいなくても生活史は作れることに気付きました。最低限のことだけを教えれば、あとは聞き手に委ねてしまっていい。
吉川:そこから『生活史の方法』を書くにいたったきっかけは何だったのでしょうか。
岸:7、8年前に筑摩書房から社会学入門の本を依頼されたのですが、教科書的なものを書くのが苦手なので、企画は保留になっていました。
そうこうしているうちに、コロナ禍の2020年頃から『東京の生活史』(筑摩書房)のプロジェクトが始まりました。150人の語り手に聞き取り調査を行うために、聞き手を150人募集しました。その中には初めて調査をする人も多かったので、Zoomで研修会を開いたのですが、そのとき初めて自分の方法を体系的に説明しました。そこでわたしがレクチャーしたことが、まさに「生活史の方法」にほかならないものでした。
吉川:『生活史の方法』には、「積極的に受動的になる」というキーワードが登場します。
岸:その言葉を初めて文字化したのが、『東京の生活史』のときです。インタビューというと誰しも「積極的に聞き出さなければいけない」と思いがちですよね。もちろん新聞や雑誌など、スピードが求められる媒体では必要なことかもしれません。
しかし、生活史研究というのはだいたい10年スパンで行います。今日聞いた話をもとに、すぐに論文を書く必要はありません。ですので、ある程度語り手に委ねる聞き取りができます。すると、思っても見なかった話が相手から出てくる。そうして聞いた生活史が一番おもしろいんです。
吉川:長い道のりですね。『生活史の方法』は、岸さんが30代から手探りで調査を始め、龍谷大学でそのノウハウを学生に教えたことで聞き手に委ねてもいいと気づき、『東京の生活史』の研修会で方法を言語化したことによって、ようやく書くことができたと。
岸:『東京の生活史』では、いかに語り手にリラックスしてもらって、脱線や世間話をふくめたいろんな話をしてもらうかを考えていたので、研修会では「いいインタビューをしようと思わない」、「相手から聞き出そうとしない」「自分のエピソードは話さない」、「一問一答にならないために、現場では質問案を見ない」といったことをスライドにして説明しました。
相手に「しゃべってもらう」というのは、特殊な状態です。聞き手が沈黙や間を保つことで、相手の中に「話してもいい」という自由が生まれるのです。こちらから話すのではなく、「待ち」の状態を積極的に作るわけです。
生活史に「正しい方法」は存在しない
吉川:たとえば工作機械の動かし方であれば、むずかしかったりややこしかったりするにせよ、誰が使っても同じように動くように規格化されていますよね。それが生活史の場合には、当の聞き手と語り手の関係に大きく委ねられている。これがおもしろさの理由であり、また難しさでもあると思いました。
岸:おっしゃる通り、わたしは生活史に標準的な方法はないと考えています。相手が生の人間の語りですと、「こう聞いたら、こう返ってくる」といった定式化はできません。実際のインタビューは、思ったようには進みませんから。吉川さんが最初に触れていただいた『大阪の生活史』の語りで、「お父さん何してたの?」と2度同じ質問をしないと聞き取ることができなかったようにです。
わたしは調査を始めたころから標準的な方法に関心がありませんでしたし、そもそもそういう発想がありませんでした。いまでも「いただいた話をありがたく聞く」以上の方法はないと思っています。「量的研究」の場合、数値データを用いて傾向や関係を統計的に分析します。ですが、生活史調査のような「質的研究」の場合、その方法とはなんだろうと考えると、例えばテープレコーダーの使い方とか、文字起こしの方法とか、手土産を渡すとか、そういった具体的な方法論になるでしょう。
吉川:この本で書かれていることは、聞き手側の体系的な方法論というよりも、語り手への具体的な心づかいの話ですよね。
岸:その通りです。結局そこしかないんです。本書で繰り返し書きましたが、質的社会調査に正解はなく、どれぐらい相手のことを考えられるかが重要です。いかに自分のエゴを消せるか、「撮れ高」のようなものを気にしないか、「論文で使えそうだぞ」といった判断を消すことができるか、といったことを意識するべきです。
沖縄で調査をされていた打越正行さんが、地元ヤンキーのパシリをやってきたのも同じことです。彼は調査をしながら、学会で偉くなろうなんて思ったことはないでしょう。純粋に、彼らの仲間になろうと思ってやっていたはずです。ひたすら聞くことに徹する。もしわたしにオリジナリティがあるとするなら、これだけです。
標準的なもの、形式的なものが苦手なんです。わたしは生活史で査読論文を書いたことが一度もありません。院生さんたちには書け書けと言ってますけどね(笑)。そのかわり、おもしろい、社会学的にも重要な本を書いているという自負はあります。
吉川:一方で、社会学で求められるものが、ここ20~30年くらいでだいぶ規格化されてきた印象があります。
岸:社会学が規格化されたこと自体は、学問として地に足がついたという証左でもあるので、悪いことではありません。『社会学はどこから来てどこへ行くのか』という本の中でわたしは、社会学は、大袈裟で根拠もあやしい「社会評論」ではなく、もっと普通の学問になりましょう、という話をしています。そこでわたしが言いたかったのは、社会学というのは地道に理論やフィールドワークや計量をする学問ですよということですが、いま時間をかけてその通りになったと思います。社会学はこの20年ぐらいでずいぶん変わりました。大学院に入って、査読を通して、学振をとって、博士号をとって、就職して、科研費を取って──といったゲームになりました。学生にも、論文を書いて査読を通しなさいと指導しています。
しかし他方で、社会学全体についてコメントするなら、なかなか“次の人”が出てこないのは気になります。打越さんみたいな飛び抜けた人材が出てこなくなっている。もちろん、彼のように無茶をしなさいと学生に指導することはできませんが、寂しい気持ちはありますね。
聞き取りの「暴力性」を認識したうえで、それでも聞く
吉川:岸さんは折に触れて「みんなが自分で生活史の聞き書きをしてほしい」ということを発信されています。
岸:学者ではない人でも、家族や知り合い、近所の人に話を聞いてみて欲しいですね。2023年の『沖縄の生活史』(みすず書房)に協力してくれた沖縄タイムス社の人たちは、プロジェクトの後も沖縄戦の調査を続けていますと知らせてくれました。これは嬉しかったですし、わたし抜きでどんどん進めてほしいと思います。今年刊行予定ですが、『北海道の生活史』(北海道新聞社)の北海道新聞の人も、調査はとても大変でしたと言いつつ、もう一冊やりたい気分になったと言ってくれました。学園祭が終わってしまったような気持ちですと。もちろん、このことを自分の手柄のように言うつもりはないことは付け加えておきます。
吉川:文学フリマなどでも、自分で聞き取りをして冊子を作っている人を何人も見かけるようになりました。これは岸さんの功績だと思います。第二の打越正行さんが出てきてほしいという思いもある一方で、生活史の営みが一般の人に開かれていることを実感します。
岸:もし聞き取りをしたい相手がいるなら、なるべく“いますぐ”やってほしいと思います。ご存命のうちに聞いておけばよかったと後悔する声をたくさん聞いてきました。わたしは関西でジャズミュージシャンをやっていましたが、戦後に活躍してきた方が、この15年ぐらいで次々に亡くなっています。先人のミュージシャンの話をもっと聞いておけばよかったと後悔しています。
ただし、ズカズカと相手の懐に入り込むことの怖さは生活史の調査には常についてまわります。本書の第二章で徹底的に詳しく書いていますが、無理やり聞くことには「暴力性」がともないます。相手に同意を取ったとしても、傷つけることはある。語り手にしてみれば、自分の話が表沙汰になることへの恐怖感もあるでしょう。これは相手からクレームがなければ済むという問題ではなく、人の話を聞くことには根源的な暴力性があるということです。聞くことの暴力性については、学生の頃からずっと悩んでいました。例えば、わたしが沖縄で調査を行うとき、どうしてもマジョリティのナイチャーとして入り込む立場になってしまう。非対称的な関係を変えることはできないわけです。たとえば、ウチナーグチがほとんどできない私が沖縄の高齢者に聞き取りができるのも、そもそも戦前から戦後にかけて沖縄の方言が「悪いもの」「遅れた、劣ったもの」として禁止されていたからです。沖縄のお年寄りはみな、とても「きれいな標準語」を話されます。ですから、私が沖縄で調査ができていること自体が、植民地的な構造の上で成り立っていることなのです。
しかし、わたしがこの本で一番書きたかったのは、聞き取りは暴力的な側面もあるけど、それでも話を聞きましょう、ということです。暴力性の議論をすると、普通は聞き取りをするなという結論になりますよね。ですが、暴力性について悩み抜いた上で、もし相手に話してもらえるなら、聞かせてもらえる範囲で聞こうよ、ということを書きたかったんです。
吉川:まさにその部分が印象的でした。そこが岸さんらしい。話を聞くことの暴力性というのは原理的なものですよね。それでも、もし聞けるなら聞いてみようという、岸さんの「ためらいがちの半歩」みたいなところが、『生活史の方法』の核心的な部分かなと思います。
岸:おっしゃる通りです。わたしの参照点、準拠点は、立岩真也さんと打越正行さんです。彼らに共通しているのは、自分の人生を費やしてでも、ひたすら人の話を聞きたい、ひたすら人を理解したいという姿勢です。お二人とも、あいついで亡くなってしまいましたが。
打越さんの葬式に、彼の本の登場人物が来て号泣していましたが、あんな社会学者はほかにいません。打越さんは沖縄のヤンキーのパシリではなく、仲間だったのでしょう。繰り返しになりますが、こういったエピソードを美談にするつもりはありませんし、打越さんを目指すべきだとも思いませんが、沖縄の調査対象者とナイチャーの社会学者がこういう関係性を築くことができたのは奇跡だと思いました。そしてだからこそ、わたしたちは聞ける範囲で聞きましょうという本が一冊あってもいいのではないかという思いもありました。
吉川:『生活史の方法』のあとがきで、「本書はとにかく『生活史を聞いて、書いて、形にしてみよう』という本なので、ここで、そもそも生活史とは何か、のような理論的なことや方法論的なことを書くことは控えます」と述べていらっしゃいます。しかし、通して読むとまさに「生活史とは何か」が全編にわたって描かれているように感じました。たとえば、手土産をいつ渡すか、名刺を配るかどうか、録音のタイミングをどうするかといった細部の判断は、すべて「積極的な受動性」という考え方に収斂しています。言い換えれば、こういった“やり方”だけを切り離して考えることはできないということですよね。
岸:そういうことです。本書は「聞くってどういうことだろう」ということについて考えた本であって、マニュアル本ではありません。
ひとつ付け加えておきたいのは、この本の内容を誤解したまま聞き取り調査を行ったり、軽率にまとめて発表して失敗する人が、これから出てくるかもしれない、ということです。その際には、著者として何らかの応答責任が求められるだろうと覚悟しています。
吉川:本書で扱っている内容は非常に繊細なものであることを、読者の方には理解して読んでいただきたいですね。それにしても、全体を通して感動的な内容でした。
岸:ありがとうございます。自分としても、「生活史」というジャンルを切り開けたと実感しています。教科書的なルールを守らず徒手空拳で調査を始めたのがよかったのかもしれません(笑)。
■書誌情報
『生活史の方法——人生を聞いて書く』
著者:岸政彦
価格:1,155円
発売日:2025年11月8日
出版社:筑摩書房
レーベル:ちくま新書