異界の食べ物を口にしてはいけない理由とは? 梨木香歩『家守綺譚』漫画版で近藤ようこが紡いだ夢と現の境界線

 梨木香歩の幻想小説『家守綺譚』が、近藤ようこの手で漫画になった。先ごろ新潮社より単行本化(上下巻)されたばかりだが、近年、日本文学のコミカライズに力を注いでいる近藤の作品の中でも、『高丘親王航海記』(原作・澁澤龍彥)や『夢十夜』(原作・夏目漱石)などと並ぶ傑作といえよう。

 舞台は、いまからおよそ百年前(明治時代)の琵琶湖に近い町。主人公は、綿貫征四郎という名の駆け出しの文筆家である。

 あるとき、綿貫は、亡友・高堂(こうどう)の実家で、「家守(いえもり)」として暮らすことになる。近々隠居するという高堂の父親に頼まれてのことだったが、待っていたのは、琵琶湖から引かれた疎水の流れが小さな池を作り、さまざまな植物が「伸び放題で栄耀栄華を極めている」独特な庭のある家だった。

 その家で綿貫は、のんびりと暮らしながら、庭のサルスベリに懸想されたり、池で河童の衣を拾ったりする。そして、床の間の掛軸の向こうから、現世(うつしよ)にたびたび戻ってくる、死んだはずの親友――。

 これは梨木の原作についてもいえることなのだが、本作では、こうした怪異の数々が、“自然な現象”として描かれている。少なくとも、不思議を不思議として描いてはいない。そこが素晴らしい。もちろん、綿貫もなんらかの怪異と遭遇した際、多少は驚いたり戸惑ったりもするのだが、しかし、すぐにそれを受け入れる。亡友とも、止まっていた時間などなかったかのように、学生時代と変わらぬ友情を育んでいく。

 また、その他の登場人物たち――隣家の「おかみさん」も、山寺の和尚も、飼い犬・ゴローも、怪異をただの日常生活の延長線上にあるものとして、特段“怖いもの”とは思っていないようだ。

 いずれにしても、近藤ようこほど、夢と現(うつつ)の境界線が曖昧になった世界を巧みに描ける漫画家はいないだろう。たとえば、前述の『高丘親王航海記』は、物語の大半が主人公の見ていた奇妙な夢の再現であるし(誤解を恐れずにいわせていただければ、この『家守綺譚』もまた、第十話でのヤモリのくだりや、最終話の最後のカットなどを見た限りでは、すべて綿貫が見ていた夢の話だった、という解釈もできなくはないのだ)、『夢十夜』では、文章でしか表現できないような不条理な世界を見事に視覚化している。

※以下、『家守綺譚』の最終章の内容について触れています。未読の方はご注意ください。(筆者)

穏やかな日々は永遠には続かない

 本作は、基本的には1話完結か2話完結(前後編)の短編の連作であり、毎回、綿貫が日常の隙間に潜むささやかな怪異と遭遇し、再び普通の暮らしに戻ってくる、という物語が繰り返される。その繰り返しが綿貫にとってだけでなく、読む者にとっても心地いいのだが、物語が終わりに近づくにつれ、そんな彼(そして、我々読者)の“穏やかな日々”は、少しだけ緊張感を帯びてくる。

 第二十九話、後輩の編集者の助言で、高堂のことを書こうと思い始めている綿貫は、意を決して「未だかつて見たことのない場所を文章によって表すには、どうしたらよいのだろうか。おまえのいた湖の底を書いてみたいと思うのだが」と訊く(注・高堂はかつて、湖でボートを漕いでいて行方不明になった、とされているのだ)。それに対して高堂は、「それはやはり自分の目で見るのが一番だろう」と答え、湖の底を見られるかどうかは、「おまえの覚悟次第だ」と続ける。

 そして、最終章となる「葡萄」の回にて、ついに、綿貫は夢の中でこの世ならざる場所(湖の底)へ行くことになる。そこでは、着飾った優雅な人々が、「心穏やかに美しい風景だけを眺め、品格の高いものとだけ言葉を交わして」暮らしていた。

 目の前には大きな円卓があり、空いている椅子に座った綿貫は、ある貴婦人から葡萄を勧められる。だが、綿貫は、(喉が渇いていたにもかかわらず)それを口にすることはしない。なぜなら、古今東西の伝説に詳しい彼は、異界の食べ物を口にすることの恐ろしさを知っているからだ。

異界の葡萄を食べた者と食べなかった者

 とはいえ、この異界は、綿貫がふだんから敬遠したいと思っている、「卑しい性根の俗物たち」と関わらずに楽しく生きていける楽園でもあった。たぶん高堂はかつてこの地の葡萄を食べたのだろう。ではなぜ綿貫はそれを食べることを拒んだのか。

 それは、彼が、「日がな一日、憂いなくいられる」夢のような世界に憧れながらも、自分に対する厳しさも兼ね備えた現実的な人間であったからだ。綿貫は湖の底で暮らすカイゼル髭の紳士にこういう。「私は与えられる理想より、刻苦して自力で摑む理想を求めているのだ。こういう生活は――私の精神を養わない」

 いったん夢の世界を離れたのち、再び湖の底を訪れた綿貫は、先ほどの自分は「失礼な態度」で「言葉足らず」だったと紳士に詫びるのだが(そして、いまの自分がするべき仕事は、「友人の家を守ること」であるということに気づくのだが)、これはどちらが良い/悪いという話ではない(高堂が選んだ道も、それはそれで「覚悟」のいることだからだ)。この点が、つまり、この世ならざる場所の食べ物を躊躇せずに食べられるか否かの違いが、一見似た者同士の綿貫と高堂の差ということになるのだろう。

 果たして自分はどちら側の人間だろうか。そんなことを考えさせられるエンディングであった。

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