『オッドタクシー』コンビの新作アニメ映画『ホウセンカ』 ノベライズで補完される主人公・阿久津の心情とその結末
※本稿は一部小説・アニメ映画『ホウセンカ』のネタバレを含みます。未読・未鑑賞の方はご注意ください。
TVアニメ『オッドタクシー』の木下麦監督と脚本の此元和津也が新たに送りだした10月10日公開のアニメ映画『ホウセンカ』を、小説家の半田岬が完全ノベライズした『ホウセンカ』(原作・脚本:此元和津也/JUMP j BOOKS)が登場。刑務所の中で死を待つばかりの無期懲役囚と、喋るホウセンカの会話から浮かび上がる人生をかけた愛と大逆転の物語を、心情に踏み込んだ描写と書き下ろしのサイドストーリーによって補完していて、映画を見た人なら気づきと安心を得ることができる。
刑務所の独房で仰向けになってぜえぜえとあえいでいる囚人の老人に、枕元に置かれたホウセンカが語りかける。「ろくでもない一生だったな」。予告編でも流れるその声が、人気テクノバンド「電気グルーヴ」のメンバーで、俳優としても活躍しているピエール瀧のものだということに興味を惹かれている人も結構いそうな『ホウセンカ』だが、この後に繰り広げられるドラマは、アニメ映画というカテゴリーから想像されがちな異能力をふるってのバトルにも、美少女や美少年と戯れるドキドキのストーリーにも向かわない。
刑務所で死にかけている阿久津実という73歳の男がまだ35歳だった頃へと時間が戻り、横浜市の金沢文庫にある部屋に、阿久津が若い女性と赤ん坊を連れて引っ越してきたばかりのシーンが登場する。女性は永田那奈で赤ん坊は那奈が産んだ健介という男の子。名字から分かるように、阿久津と那奈は籍を入れた夫婦ではなく、健介も阿久津の子ではなかった。
その時のことを、刑務所の独房へと戻ったシーンの中で、ホウセンカが阿久津に語りかける。引っ越し先の庭に生えていたホウセンカが見ていたことを、なぜか枕元のホウセンカも知っていた。「お前もよくやるよな。飲み屋で出会っただけの女を引き取るなんてさ」と言うホウセンカに、「引き取るとかじゃない。来てもらったんだ」と答える阿久津からは、人の良さと優しさが感感じられるが、その正体はみかじめ料やテキ屋のシノギで食うヤクザだった。
社会の片隅で真っ当とはいえない仕事をしながら、家庭のようなものにささやかな幸せを感じて日々を生きている不器用な男の物語。それが、映画で描かれノベライズで綴られる『ホウセンカ』という作品のメインストーリーだ。
浮かぶのは、家族を持ってカタギになったヤクザの葛藤を描いた 金子正次主演・脚本で川島透監督の『竜二』(1983年)や、犯罪者となった元刑事が病気で余命幾ばくも無い妻と旅に出る北野武監督『HANA-BI』(1998年)といった、淡々とした展開から滲み出てくる人の心情を感じ取らせる実写の作品群だ。そのフォーマットを、アニメ映画で試みたというところに、『ホウセンカ』という作品のユニークさがある。
だったら実写でも良かったのではと思われそうだが、喋るホウセンカというストーリーの鍵となる存在は、非日常を日常に混ぜ込んで違和感なく見せることができるアニメという表現だからこそ、説得力を持つものになっている。木下監督によるキャラクターデザインも、青年漫画のようなデフォルメ感があって、ヤクザというともすれば殺伐としたものになりがちな人物であり世界を、どこか優しげで親しみのあるものにしてくれている。世界観と絵柄が絶妙にマッチしたアニメ映画の好例と言えるかもしれない。
それならノベライズに意味はないかというと、こちらは映像には描かれてないキャラの心情描写を添えることで、物語をより深いところまで理解できるようにしている。映画では、阿久津と那奈が健介の面倒も見ながら暮らしていく日々が綴られていく。最初は仲睦まじげに見えた2人だったが、なぜか阿久津が家に寄りつかなくなっていき、それが中盤で判明するあるアクシデントへの対応を難しくして、結果的に阿久津を無期懲役囚として獄中につなぎ続ける。
何が起こったのか? バブル到来で急増した土地転がしにヤクザの阿久津も噛むようになって、一気に金回りが良くなった。それを元手に那奈や健介と本当の家族になって良い暮らしをするようになったかというと、阿久津は金を使いまくって家には入れず、入籍もしなかった。映画には、「籍は入れてくれないの?」と那奈に言われた阿久津が「……このままじゃ何か問題か?」と返して那奈が「問題はないけど……」と黙り込むシーンが登場する。
本当は那奈に好意を寄せていたことが、ホウセンカとの会話で明らかになっていた。それでも入籍を拒んだのはなぜなのか? ノベライズでは、「この世界に入り、そこでの仕事に初めて手を染めた日から、阿久津は普通の未来を手にできない覚悟を決めている」といった感じに、ヤクザである阿久津が自分は決して幸せにはなれないと思っていたことが綴られている。
虚勢を張っていただけかもしれないが、そうした心の迷いがやがて、那奈と健介を見舞うアクシデントを受けて後悔に変わり、決断へと至らせる流れが、ノベライズでの阿久津の心情描写から感じ取れる。
阿久津が那奈と健介と最後に過ごした日の描写は、アニメ映画ではようやく家族のようになった3人の姿を通して、阿久津がかけがえのないものを感じ取り、だからこそ決断して実行したのだろうと想像させる。ノベライズではさらに、「ああ、やっといま気づいた。失いたくない。この子を失いたくない。ずっと三人でいたい。それが叶うなら、自分はどうなってもいい。だからどうか。この二人だけは。那奈と健介だけは、ずっと無事でいてほしい。生きていてほしい」という言葉によって、決断の意思を補強される。
その結果が、30年近い時間を離れたままにさせることになったとしても、阿久津は後悔などしなかった。仕込んでおいた大逆転への道が、死に際にあってホウセンカの声が聞こえるようになった阿久津を、悲嘆の中に沈ませることはなかった。アニメ映画を見終えた時、あるいはノベライズを読み終えた時、驚きの仕掛けとともに発動する大逆転のドラマに快哉を叫び、同じような気持ちを阿久津も抱いたに違いないと思うはずだ。
映画では、阿久津がどうなってしまったのかを、雰囲気によって感じ取らせるようにしている。ノベライズはそこを明確にして「やはり」と思わせるが、だからといって受け取れる余韻なり浮かぶ感動は変わらない。長い時を隔たれた場所で暮らしながらも、阿久津と那奈には通じ合っていた思いがあった。それが、阿久津によって描かれていた那奈の似顔絵に添えられていた言葉で確認され、もう十分といった感慨が沸き起こる。
さらに、『「盤」外編』としてノベライズのために書き下ろされたショートストーリーが、阿久津の運命だけでなく、あの喋るホウセンカについても、映画のその先を描いて見せてくれている。思い出は受け継がれて伝えられ続けていく。それが、映画の中のホウセンカだけでなく、あちこちに咲いては種を作って近くにまき散らしたホウセンカにも当てはまり、自分の一生も阿久津と同じように語り継がれていくのだとしたら、こんなに面白いことはない。
現実を超えた夢を見させてくれるファンタジーとして作られた価値を、そんなところにも感じたくなる映画なのかもしれない。