荒俣宏が絶賛する天才博物画家・伊藤熊太郎とは? 精緻かつ美しい「金魚図譜」をまとめた著者に聞く魅力と謎
伊藤熊太郎という画家をご存じだろうか。明治中期から昭和初期にかけて、魚類図鑑などの絵を描いて活躍した“天才博物画家”である。荒俣宏氏が絶賛する忠実かつ精緻な描写は、図鑑の絵という枠を超え、もはや芸術作品と言っていいほどの美しさだ。
しかし、その人物像は謎に包まれている。没年ははっきりとわかっておらず、昭和8年の10月~10年の4月までの1年半のどこか、という曖昧な状態なのだという。そもそも、熊太郎に限らず、当時の博物画家は図鑑にも名前が記載されていないことが多いため、活動の実態を掴むのが難しい存在なのだ。
ひょんなことから、神保町の古書店で31枚にもなる魚の図集『魚譜』を入手した福地毅彦氏は、その作者と想定される伊藤熊太郎について研究し、『海を渡った天才博物画家 伊藤熊太郎 謎に包まれた金魚図譜を追って』(山と溪谷社/刊)を出版した。熊太郎の絵に魅せられた背景から、ヴェールに包まれた熊太郎の実像まで、福地氏にインタビューを行った。
■古書店で偶然『魚譜』を入手
――福地さんが“博物画”に着目された点についてお聞かせください。
福地:もともと釣り好きが高じて魚好きになり、その流れで魚類図鑑や博物画が好きになりました。図鑑に掲載されている図版は写真が多いのですが、1980年代中頃までは絵の方が一般的です。ところが、「この絵は誰が描いたんだろう」と奥付を見ても、画家の名前はほぼ記載されていない。図鑑の執筆や監修を行った研究者の名前は出ていますが、絵の作者の名前がないことは一昔前までは普通でした。
――そんな博物画家の一人である伊藤熊太郎が描いたと推定される『魚譜』を入手された背景を教えてください。
福地:1987年、29歳だった私がたまたま神保町の古書店「鳥海書房」で購入したのです。私は常連客で、店主に見せびらかされました(笑)。一目で魅せられ、ちょうど冬のボーナスが出たばかりだったので「売ってくれ」と言いましたが、「売り物ではない」と言われたのです。店主曰く、書籍ではないし、奥付がないので発行年も作者もわからない。調べて特定してから売りに出したい、という話でした。
しかし、これを逃すと二度と手に入らないと思い、「売ってくれるまで帰らない!」と粘ったんです。根負けしたのか、店主が提示した金額は11万円でした。その時懐には12万円があったので、後先考えず即決したのです。これほど素晴らしい絵を描いているのだから、世間には知られていなくても魚類研究者や博物画の世界では有名な画家だろうと思っていました。ところがその思い込みは甘くて、調べても、調べても、作者の名前はわからなかったのです。
ところが、2022年に「開運!なんでも鑑定団」を見ていたら、伊藤熊太郎作といわれる絵の肉筆原画が100枚、鑑定に出されたのです。私が所蔵している『魚譜』には金魚が多くありますが、番組では1枚だけ。それでも色がきれいでテレビ映えするのか、金魚の絵が比較的長く映し出されました。タッチや雰囲気はまったく同じで、『魚譜』の作者だと確信しました。しかし、伊藤熊太郎はその時に初めて聞く名前で、ピンときませんでしたが。
■伊藤熊太郎とはいったい何者?
――そもそも、伊藤熊太郎はどのような人物なのですか。
福地:「鑑定団」を見て、ネットで検索したのですが、“幻の博物画家”と呼ばれているとしかわからない。だったら、とことん調べてやろうと火がつきました。残された資料によると、外見はわかっています。一枚だけ残っている肖像写真を見ると、かっこいい中年のおじさんのイメージでした。さらに、アメリカに行っているので、細かな身体的特徴を入国管理官が書いています。身長160cmで肌は浅黒く、英語に堪能で、当時としては中肉中背のようです。
熊太郎の経歴で特筆されるのは、43歳で、アメリカの調査船「アルバトロス号」に絵師として2年弱乗船したことでしょう。下船後に日本の雑誌のインタビューに2つ答えていますが、アルバトロス号の生活に触れず、フィリピンのマニラのバーの日本人女性の給料とか、どうでもいい話ばかり(笑)。船に乗っているヤギのほうが、乗組員より乗船期間が長いとか。こうしたエピソードを見ても、私は好奇心旺盛でコミュニケーション能力がある人だと思いました。
当時、魚類学はアメリカが一歩も二歩も先を進んでいるし、研究者同士でもアメリカが上の立場。熊太郎は日本人の絵師なので、船の中で一番下の立場です。しかし、研究者や水兵たちと、閉じられた環境でトラブルを起こさずに過ごしたのは、ひとえにコミュニケーション能力の高さゆえでしょう。ちなみに、研究者のボスは熊太郎に「揺れる船の上で絵を完成させろ」と無理難題を投げかけていますが、それに言い返している記録があります。
――なかなか自分の信念を持っているのですね。
福地:長いものに巻かれずに、言うべきことは言う。けれども、明るいキャラクターで、芯のしっかりしたおじさんだったのでしょう。もうひとつ、彼は絵の天才なので、19歳くらいで師匠を追い抜いています。東京大学から絵の依頼が来て師匠と一緒に同じ絵を出したら、師匠が落ちて、熊太郎が採用され、師匠は絵を描くのを辞めたというのです。そんな話を、自分から編集者にしているんですよ。
それだけで判断すると嫌な奴だなと思うかもしれませんが、明治後半の熊太郎の絵を採用した図鑑の書評を見ると、絶賛の嵐でした。おそらく、彼自身も自分が天才だと自覚していたと思うし、自信があったからアメリカに行ったのだと思います。
■明治時代に博物学が隆盛する
――そもそも日本の博物学は、どのようにして誕生したのでしょうか。
福地:江戸時代の幕末までさかのぼると、日本の博物学のルーツは“本草学”だったといえます。本草学は今の博物学とは異なり、実学が中心です。つまり、実際に役に立つ知識の集大成。そして、情報を羅列しただけの文章だとわかりにくいので、本には必ず絵がつきます。それが博物画のスタートでした。明治の中盤以降になると欧米から研究者も日本に入ってきて、その後を追いかける状態が続きました。
明治時代の半ばになると、博物画の対象は自然界に広がっていきます。印刷技術が進化するとやがて色がついてきて、絵も一層精密になってきました。しかし、それまでの日本の博物画は、種類がわかればいいというもので、鑑賞するという姿勢で見られることはありませんでした。欧米では、既に博物画を鑑賞する考えが生まれ始めていたのですが。
熊太郎が出た頃から、博物画は絵画としても素晴らしいという見方も出てきています。だんだん知識自体は欧米の博物学に飲み込まれてしまいますが、日本人は器用で細かいところまで描くので、現代と比較してもまったく劣っていません。魚の絵を見る限りでは、欧米の絵はずいぶんざっくりしているなと感じます。
――荒俣宏さんが本書では解説をされています。荒俣さんは伊藤熊太郎について、もっとも深く知る一人です。どのような感想がありましたか。
福地:荒俣さんにはしばらくお会いできず、連絡先もわからなくて、1年くらい追いかけました。お会いしないと話が進まないと思いましたからね。念願かなってお会いできた荒俣さんは、『魚譜』を見てすぐ、「熊太郎ですね」とその場で断定されました。さらに、「自分のことのように嬉しい」「よくこんな絵が残っていた」と話してくださいました。なお、荒俣さんがいちばん好きなのは、黒いオランダ獅子頭の絵だそうです。
■『魚譜』は謎だらけ
――荒俣さんが熊太郎の絵と判断しましたが、それでも『魚譜』にはわからないことが多くあります。
福地:そもそもサインや署名が一切ないため、熊太郎だという客観的な証拠がありませんから。私はもう熊太郎の絵だと信じていますが、証明するためにはどうすればいいかというと、証拠を積み上げていくしかありません。荒俣先生は東京海洋大学が所蔵する熊太郎の作品を世界で一番見ている方なので、荒俣先生が熊太郎だと言えば説得力があると思います。
では、絵画としてはどうか。私は絵画には門外漢なので、美術史の専門家である埼玉県立大学の牧野由理先生、実践女子大学の児島薫先生にも見てもらいました。お二人からは、「作者が熊太郎と断定はできないが、素晴らしい絵であることに間違いない」という趣旨のコメントをいただくことができました。
――『魚譜』は紙質も素晴らしく、色もおそらく岩絵の具を使って描いている。豪華な作りになっていると思いました。
福地:熊太郎はプロの画家ですから、趣味でこうした絵を描くことはまずありえないので、注文主がいるはずです。31点中、金魚が21点も描かれ、当時の新品種まで含まれている。ここから、金魚業界に近い人が注文したと考えました。ただ、絵の右上に貼られた短冊に品種名を書いてあるのですが、間違っているものが2~3点あるのです。
それも微妙な間違いではなく、絵が明らかにキャリコ琉金なのに短冊には錦爛子(キンランシ)と書いたりしている。明らかにおかしいのです。金魚業界のプロはそれを間違えないだろうと思うのですが……。したがって、注文主は謎のままです。
――古書店に売った、前の持ち主は誰だったのでしょうね。
福地:鳥海書房の当時の店主は既に故人なので、どのような経緯で手に入れたのかはわかりません。私もいろいろ予測してみました。1970年代に亡くなった金魚研究の草分け的存在で大権威である松井佳一博士は、研究者でありながら金魚グッズコレクター。コレクションに『魚譜』があってもおかしくありません。そこで、店主が仕入れたのは松井博士のコレクションだとあたりをつけたのですが、違ったようです。こうなるともう、手掛かりなしですね。
■博物画のリアルな美しさ
――博物画は近年、じわじわと注目が集まっています。福地さんが考える魅力を教えてください。
福地:博物画と称する以上は、正確じゃないといけません。魚は鰭の筋一本一本書く必要があるし、背びれの筋が100本あれば100本正確に描かないといけない。そんな正確さに感動するのですが、同時に正確なものってなんでこんなに美しいのだろうと感じます。だから博物画としての評価が高いほど、絵画としても成立すると私は思っています。
――『魚譜』で福地さんが特におすすめの絵はどれですか。
福地:拙著の表紙に使っているリュウキン、オランダ獅子頭ですね。博物画でありつつ、絵画としても成立している素晴らしい例だと思います。赤の使い方がなかなかいい。120年以上前の絵なのに、かなりきれいに残っていました。鳥海書房に渡るまで何人の手を経ているかはわかりませんが、皆さん大事にされてきたのだと思います。
――しかしながら、こうした博物画は、芸術作品としてはあまり評価されてきませんでした。
福地:絵師は出版社から買い切り扱いになることがほとんどで、特に昭和40年代までは出版社に渡したら終わりでした。本が出た後は大切に扱われるわけでもなく、編集者が机の隅にでも置いておいて、引っ越しの時に紛失するパターンも多かったようです。そもそも、東京海洋大学が所蔵する熊太郎の絵も、廃棄される予定だったものを荒俣先生が救った経緯がありますからね。
博物画は図鑑の絵、挿し絵だと解釈されてしまうので、美術作品と比べると扱いがぞんざいになり、どうしても紛失されやすい。博物画家も作品が手元に残らないので、希望する人に売ったり、個展を開いたりするチャンスも永遠にありませんでした。
――研究を行っている人も少なく、作品の探索や資料探しは大変だったと思います。困難も多かったのではないですか。
福地:私は魚類の研究者でも美術史の研究者でもありませんが、話を聞かせてほしいとお願いすると、ほとんどの方が会ってくださったのです。それは熊太郎の絵の力だと思いますね。苦労もありましたが、皆様に快く受け入れてもらえたことで、こうやって本にまとめることができたのです。
このような名前の誤記があることで金魚業界の人間や問屋が依頼をして熊太郎に描かせたものではないとの見立てができる
■博物画がアートとして広がってほしい
――本書の「博物画の過去と現在、そして未来」という言葉に込めた意図をお聞かせください。
福地:優れた博物画が、アートとして認められることが願いです。大きな流れとしてはそうなってきていると思いますが、まだ評価が低いのかなと感じます。これまで、博物画という部分を押し出した展示は行われたことがありますが、アートの展示としては物足りないものがあります。将来的には、熊太郎単独の原画展が開催されてほしいですね。人の目に触れる機会が増えれば増えるほど正当な評価がくだされるようになっていくのではと思っています。
――話が逸れますが、同年代の植物学者である牧野富太郎も、自身の図鑑の絵を自分で描いています。繋がりはなかったのでしょうか。
福地:知り合いだったというエビデンスも、知り合いではなかったというエビデンスも現状、ありません。ふたりは時間的にも空間的にも地理的にも近い場所にいましたが、面識はなかった可能性が高いと思います。対象が植物と魚だったから、というだけではありません。牧野富太郎は東大の先生で熊太郎は絵師(画工)ですからね。当時は、東大の先生と画工では、社会的な立場に大きな差がありました。
■子孫の方、どうか連絡をください
『海を渡った天才博物画家 伊藤熊太郎 謎に包まれた金魚図譜を追って』(山と溪谷社/刊)
――今後取り組んでみたいテーマはありますか。
福地:今回の調査で、他の博物画家の名前も相次いで発掘できました。御多分に漏れず資料が少ないのですが、何かきっかけがあればまとめてみたいです。熊太郎だけでなく、他の画家の調査も進んでいけば、博物画がますます注目され、評価されるのではないでしょうか。
実は、調査の段階で立ちふさがった最大の壁は、戸籍が閲覧できないことです。戸籍は直系子孫しか閲覧できません。熊太郎の本籍はわかっているので、台東区役所に戸籍を見せてもらえれば没年もわかりますし、奥さんの旧姓もわかるんですよ。しかし、断られてしまった。そのうえ、100年以上前の戸籍を地方の役所は廃棄し始めている。となると、将来的に「調査研究のためには戸籍謄本を見てもいい」となったときに、現物がない可能性もあります。だから、見せてほしいなあ……という気持ちは今も強くありますね。なお、熊太郎は子供がいた形跡がないのですが、戸籍さえ閲覧できたら子孫の有無もわかります。熊太郎のひ孫、もしくは玄孫のかたがいらっしゃいましたら、ご連絡いただけますと大変嬉しい限りです。