【新連載】つやちゃん「音楽を言葉にする」 第1回:皆が語りすぎている時代に、なぜ語るのか
文筆家・つやちゃんが、インターネットやAIが発展してますます複雑化する現代の情報空間において、音楽を中心としたカルチャーについて「書くこと」「語ること」の意義やその技法を伝える新連載「音楽を言葉にする」。
第1回は、つやちゃんが文筆家となった経緯と、現代における批評の役割について。(編集部)
「この得体の知れない何かに輪郭を与えたい」というモチベーション
この連載は、音楽を中心としたカルチャー全般について「言葉にしたい」「書きたい」と考える人に向け、私自身の考えをまとめ、その技術までを伝えていくものです。とはいえ、私が本格的に執筆を始めてから、まだ5年ほどしか経っていません。そんな私がなぜこの題材で連載を始めるのか、不思議に思う人もいるでしょう。文章術であれば他に適任者はいるように思いますし、より硬派に音楽・文化批評やジャーナリズムに取り組んでいる人も少なくありません。だからこそ、この連載ではひとつの観点を重視したいと考えています。つまり、「いま、この時代に」音楽や文化を語り、書くこと――その方法や技術を意識した上で、論じていきたいということです。
連載が進むにつれてもう少し丁寧に説明していきますが、すごく平たく言ってしまうと、いまこの時代における「書く/語る」こととは、自己表現とほぼイコールです。この数年の、ZINEやnote、ポッドキャストの盛り上がりを見ればそれは明らかでしょう。本連載では、そういった自己表現としての語ること/書くことを肯定しながら、それが商業誌にも掲載できるプロフェッショナルな領域へ広がっていくようなサポートができればと思います。むしろ、それこそが、いま最もリアルな物書きとしての在り方でしょう。それに、私自身が、まさに自己表現として語ること/書くことをはじめたひとりでもあります。
少し、私の話をさせてください。これは色々なところで話していることですが、「なぜ語り/書きはじめたのか」というスタート地点についてのエピソードです。私が初めてきちんと文章を書いたのは、2019年10月のことでした。それまで、自分の考えを伝える文章というと、学生の時の作文や読書感想文といったものしかほぼ書いたことがありませんでした。小さい頃から読書は好きだったので本はたくさん読んでいましたが、ちゃんとした文章を書いたことはほとんどなかったのです。というか、そんな能力は私にはないと思っていました。2010年代のブログ文化の隆盛を体感したり、素人がライターとして注目を集めるような潮流を感じたりはしていましたが、受け手としては、そういったカルチャーをどちらかというと冷ややかな目で見ていたかもしれません。書くことは、特殊な能力であると認識していたからです。つまり、2019年10月までの私にとって、文章とは受け手として「読む」ものであり、誰かが作ったものを享受する側として何の疑いも持たずに生きていたのです。
変化が起きたのは、2019年の夏ごろでした。あと少しで2010年代が終わろうとしていたそのころ、色々なことがあったな、と10年間を振り返りつつ過ごしていました。世の中のことやプライベートのことも含めて、なんとなく、自分の中にぼんやりと「こんな10年間だった」という思い出が得体の知れない感情として沸いてきたのです。時期が時期だけに、ちょうど色々な人が、2010年代を振り返りはじめていました。雑誌を開けばディケイドを総括するような記事が展開されていて、私生活でも「この10年間でさぁ……」といった何気ない会話を見聞きするようになりました。しかし、私にとって、何だかすべてがしっくりこなかった。この得体の知れない気持ちは何だろうと、もやもやしはじめたのです。そうすると、いてもたってもいられなくなりました。徐々に、「自分しか感じていないであろうこの思いに、少しでも輪郭を与えたい」という感情が沸々と沸いてきたのです。なぜか分かりませんが、私にとってそれを表現する手段は文章でした。今思えば、ぼんやりとした感情に形を与えることができれば、アプローチは何でも良かったのかもしれません。誰かがふと思い立って音楽をつくるように、誰かが筋トレに励むように、誰かが起業するように、自分にとってはその方法が「書くこと」だったのです。2019年の10月にそう思い立ってから、空いた時間にPCを開き、書いては消してということを繰り返すようになりました。なんとか三か月かけて12月の末に書き上げたその文章を、インターネットに公開したところ、想定以上の人に読まれることになりました。
その文章は、すごく平たく説明してしまえば、私が2010年代を通して感じていた「格差社会の進行」「資本主義の限界」といったことへの暗澹たる気持ちと、10年間を通して最大の発明だと実感していた「トラップミュージックという音楽ジャンルの可能性」を絡めながら書いたものです。何のことやら、と思うでしょう。当時の私も、何のことやらと思っていました。そもそもそんなよく分からない文章が読まれるなんて夢にも思っていなかったですし、素人の妄言です、と自分で自分にエクスキューズを入れながら書いていました。けれどもそこには、文章としての完成度が云々といったこと以上に、「書きたい」という抑えられない気持ちがあったのです。誰に言われるまでもなく、何の報酬があるわけでもなく、とにかく「この得体の知れない何かに輪郭を与えたい」というモチベーションだけに突き動かされていました。そしてそれは、語ること/書くことという行為において、最も大切な起点であり、自己表現だと思うのです。
とはいえ、いくらあなたがピュアなモチベーションを持ち「書きたい!」という情熱に駆られていたとしても、それがいまの時代においてどのような意義を持っているかという点について考えていないことには、自己満足の行為に終わってしまいます。自己表現としてやっているから、それでいいんだという人もいるでしょう。もちろん、それでもかまいません。ただ、自己表現としてはじめたことについて、多くの書き手が似たような気持ちの経過をたどると思うので、わたしの「語る/書く」という行為がその後どのような変化を経ていったかについてまずはシェアさせてください。
日本語圏の「カルチャー語り」の充実度
「自分しか感じていないであろうこの思いに、少しでも輪郭を与えたい」という感情のもと書いた初めての文章によって、まず手に入れたのは「言葉になった=輪郭が与えられた!」という歓びでした。もちろん、もやもやしたものが一つ残らず全て文章として昇華されたわけではないけれど、書くことによって、ある程度は「こういうことだったのか」という満足感と充実感を得ることができました。よくアーティストの方が「自分の感じていたことや考えていたことが、今回の作品でなんとなく形にできた気がします」ということを言いますが、まさにそういったニュアンスに近いかもしれません。そうすると、次に「もっとこの感覚を味わいたい」という気持ちが沸いてくるのは当然の流れです。ぼんやりと「次はこういうことについて書きたいな」「いま考えているこの想いを書きながら整理したいな」という感情が沸いてきました。もっと直接的に「この曲の良さをたくさんの人に伝えたいな」といったモチベーションも沸いてきました。
自身のブログに、一か月に一本くらいのペースでぽつぽつと文章を上げていく中で、徐々にメディアから記事の依頼をいただくようになりました。その頻度は増えていき、三~四年間ほどで、実に百近くのメディアから「〇〇について語って/書いてください」という話をいただくことになりました。音楽メディアだけでなくカルチャーメディアや経済メディア、媒体もWEBや雑誌、新聞、ラジオ、イベント、TV……とその種類もさまざまですが、まず何よりも私が驚いたのは、こんなにも音楽やカルチャーについて書いたり論じたりする場が世の中にあったんだ、ということでした。もちろん私が書いたりしゃべったりしたことがないメディアもまだまだ星の数ほどあるので、世間には、そういった「語り」の場がたくさん、本当に数えきれないほどあふれていることになります。仕事柄、海外のメディア状況についても積極的にリサーチするようになりましたが、つくづく思ったのは、文化的なことに関する宣伝や批評がこれほどまで充実している文化圏は、そうそうないということです。少なくともアジアにおいては、日本語圏の「カルチャー語り」の充実度は群を抜いています。
わたしにとって、その驚きはとても新鮮なものでした。それまでも音楽を中心にさまざまなカルチャーが好きで、どちらかというとそういったメディアについては詳しい方だったと思いますが、やはり受け手として見る世界とは全くの別物です。しかもわたしの場合、単なる宣伝としてそういった場で書いたりしゃべったりしているわけではなく、何かしらの価値基準をもって論じることがほとんどですし、そもそもそういった役割を期待されたうえで依頼が来ています。つまり、それぞれの媒体で程度の強弱はあれど、ある種の「批評行為」をする場が実に膨大にあるわけです。カルチャー系のライター、中でも音楽ライターに限ってもいまぱっと名前を挙げられるだけで数百人はいるので、皆が普段活動している場を可視化していくと、とんでもない量になるはずです。到底、すべてをチェックすることはできません。
何が言いたいかというと、繰り返しになってしまいますが、「いま、音楽や文化について語る場というのは山ほどある」ということです。上の世代からは「昔はもっとあったし、今はむしろ、ちゃんと批評行為をする場というのはどんどん減り、言論空間としては貧しい状況になっているのではないか」という声が聞こえてきそうですが、それは批評という行為をどう定義づけるかにもよるので、後ほど詳しく論じます。とにかく、いわゆる生業として音楽について語り/書いている人だけでも、追いきれないくらいいるということです。それに加えて、ZINEやポッドキャスト、SNS、さらにサークルやゼミなどのクローズドの場も含めると、いま世の中は、一体どれほど音楽に関する論にあふれているというのでしょう。音楽雑誌が売れないという事態は、「語り」が求められていないのではなく、それだけ様々な場へと「語り」が多様化し分散したから、と捉えた方が正しいように思います。
「皆が語りすぎている時代に、なぜ語るのか」
さて、わたしがここで伝えたいことは、そこからもう一歩進んだ先にあります。つまり、「皆が語りすぎている時代に、なぜあなたは語るのか」ということです。これは、非常に難しい問いでしょう。すでに追いきれないほどのペースで言葉はたくさんあふれていますし、しかも、これからますます増えていくことが考えられます。中でも、語りの裾野が広がることによって、カジュアルかつライトなアプローチがどんどん増えています。思ったことを即座に、やさしい言葉で感覚的にパッと語り世の中に公開することが普通になっているのです。10年後には、老人ホームからデヴィッド・ボウイやニルヴァーナについて語るYouTuberがたくさん現れ、中年のものになったTikTokからはボカロミュージックやヒップホップの感想があふれ、若い世代は何か別のメディアで新しい音楽についてあれこれコミュニケーションをかわしているかもしれません。そんな時代にあって、あなたはなぜ、誰もが普通に行なっている「語ること」についていわば「真面目に」アプローチしようとしているのか、ということです。もっと身も蓋もないことを言ってしまうと、別に真面目に語ったところでそれは何か巨大な富を生むわけでもありませんし、むしろその真面目さは、ある層にとっては疎まれる可能性すらあります。あなたは、何がしたいのでしょうか。何かぼんやりとそこに意義を感じているからこそ、あれこれ考えを巡らせてこの連載にたどり着くという、ある種の儀礼的とも言える手続きを踏んでいるわけです。
この問いについて回答を得るには、「批評」という行為について論じることを避けては通れません。けれども、わたしは、というか多くの書き手が、「批評」論についてはもううんざりしていることでしょう。いつの時代も「批評」はなにかと議論の対象になり、それぞれの解釈によってさまざまな討議を呼んできました。「批評」と言った途端に、いつもは批評なんて読んでいない人たちもわらわらと沸いてきて、ああでもないこうでもないと批判し去っていく、ということがたびたび繰り返されています。ですので、わたしはできるだけ本連載では「クリティーク」なり「分析」なり「考察」なりといった代替する表現を使いたいのですが、それだとやはり的確さに欠けるため、嫌々ながら「批評」という言葉を使うことにします。
それでは気を取り直して、「皆が語りすぎている時代に、なぜ語るのか」ということについて、「批評」を引き合いにしつつ考えてみましょう。もともと批評というのはひとつのジャンルであり、固有の歴史をもっています。「小説」や「詩」や「エッセイ」や「伝記」といったものと同じように、長年培われてきたジャンルです。かつて、批評というと文芸批評を指すことが多かったですが、いまではさまざまな領域で「批評」なる行為が行われています。定義は時代によってもまちまちであり、たとえば19世紀の小説といまの小説が全く別物であるのと同様に、批評も大きく形を変えてきました。その歴史をすべてさらっていくことはここではしませんが、ひとつ言えるのは、いつの時代においても、ある種の専門的スキルによって書き/語られたものが批評であるということです。仮に「批評とは、ある対象を通して問いを立て、その意味や価値を他者と共有可能な言葉に変換し、世界との関係を編み直す営みである」と定義づけてみると、専門性が際立ってくるでしょう。つまり、どれだけ音楽についての語りや文章が世にあふれようと、ある一定の批評に類するものは一部に限られるわけです。発表されるプラットフォームが何か、というのはそれほど関係ありません。批評誌に掲載されている文章でも批評と呼べないしろものがありますし、YouTuberが動画でボソッと語った一言が圧倒的な批評強度を放っていることもあります。どちらにせよここで言いたいのは、「皆が語り/書きすぎている時代だが、批評的な強度を持つ言説はやはり稀少である」ということです。
しかし実を言うと、本格的な批評的語りであればあるほど、多くの人に読まれるわけではないというのも事実です。なぜなら、それは専門的で難しくなりがちだからです。どのジャンルにおいても、専門性の高いものより大衆性のあるもの、難しいものより平易なもの、観念的なものよりも直感的なものの方がリーチは広くなるため、当たり前といえば当たり前かもしれません。けれども興味深いのは、これだけ経済的合理性が追求された時代においても、一定のメディアは批評的な言説を自分たちのプラットフォームからは決して捨てないということです。これは普段あまり言及されませんが、非常に重要なポイントです。
わたしはメディアに企画や編集という立場で関わることがありますが、そこでつくづく感じることがあります。繰り返しますが、批評に類する記事は本当にリアクションが低いということです。たとえば雑誌だと、特にファンダムが強固なアーティストを特集する場合、写真とインタビューが豊富であればあるほど売れます。雑誌はいま売り上げないと本当に続けていけないので、どういうコンテンツを掲載すれば売れるかというのは厳しくジャッジされます。しかし、そこでなぜか「批評/レビュー記事も掲載する」という判断がくだされることが多々あるのです。これはどういうことなのでしょうか。厳しい利潤追求のただ中にあって、さまざまな記事の精査がなされた現在でもなお、批評/レビュー記事が生き残っているのは大きな謎と言えます。雑誌が存続できるか=食っていけるかというシビアな世界の中で、「編集者としての矜持」などといった甘ったるいものでは説明できない何かが、そこにはあるのです。
それはひとえに、「批評とは信頼を築くための装置であるから」と言えるでしょう。雑誌の中には、批評記事でしか発信し得ないシグナルというのがあるのです。それは、対象を丁寧に読み取り、背景を調べ、言葉を探し、文体を整えるプロセスが醸成する、思考と感受の痕跡のようなものです。受け手がそれを読み取ったときに、「ここには誠実に向き合った誰かがいる」と感じる――信頼とは、単に情報の正しさだけではなく、真剣に考えた形跡を感じ取ることによって生まれるのです。そういった姿勢は、「このメディアは操られにくい」というどっしりとした足場を築いているような印象を与え、同時に中立性をも匂わせます。そう考えると、批評の体裁を持った提灯記事が嫌悪されるのは、当然と言えるでしょう。そして、これもまた身も蓋もない言い方になりますが、信頼というのは非常に大切な価値であって、中長期的に捉えると資本につながり利益を呼び込む力を持っています。雑誌が、その号では直接的に売り上げにつながらなかったとしても、批評記事を掲載し続ける理由はそこにあります。
実はこれは、時代を超えて巨大な富を築き上げてきたラグジュアリーブランドの戦略と全く同じ構造です。ラグジュアリーブランドは、ただ商品を売るだけではなく、「何を信じているか」「どんな美意識を持っているか」を一貫して語り続けます。それはしばしば、世界観とともに思想を形成し、時間をかけてわたしたちの意識へと溶け込んでいきます。広告を見て、「もっと即時的に伝わる表現を使えばよいところを、なぜこんなにも抽象的なコピーを使っているのだろうか?」と思ったことはないでしょうか。ブランドのコピーとは、何百年にも渡って考え続けてきた信念をたった一行に圧縮する作業です。どれだけ軽やかに見えても、背後にはずっしりと重い思考と感受の痕跡があります。まさにそれこそが、思想によって信頼を築くというありかたそのものなのです。つまり、信頼とは、即効性ではなく蓄積の美学によって支えられているのです。雑誌も同じことで、対象の背後にある美学や構造を捉えようとする姿勢が、「この媒体には目利きがいる」「ここは信頼できる」という印象を形成していきます。それはほとんどの場合読者が直接的に意識するものではないですが、じわじわと蓄積されることで文化的信用になっていくのです。つまり、批評というのは、メディアが一時の売り上げだけでなく、「信用」という資本を基盤に中長期に渡り商売していこうという際には欠かせないものなのです。
そう考えていくと、「皆が語りすぎている時代に、なぜ語るのか」という問いに対する答えが見えてくるのではないでしょうか。皆が語りすぎている時代においても、「批評的強度のある語り」はそう簡単に生み出せるものではありません。音楽を丁寧に聴き、背景を調べ、言葉を探し、文体や口調を整えるプロセスが醸成する、思考と感受の痕跡を残したものは即時的にはほとんど生まれ得ない。本当に重要な語りというのはやはり一部のもので、それは信用を形成し、アーカイブされ、文化となって残っていきます。いやいや、わたしはわたしの感想をただ言語化したいだけなんだという人もいるかもしれません。しかし、あなたもすでに気づいている通り、言語化というのはとても難しい行為です。「やばい」「すごい」という形容だけではあなた自身がもう物足りなくなっているからこそ、こういった場にたどりついているのでしょう。その時点で、あなたはもう即時的な消費態度だけではない何かを求めているのです。そうなると、あとはもう思考と感受を巡らせていくしかありません。批評とは、実際のところ、知識をひけらかすことでも、専門用語を並べて難解に語ることでもないのです。大切なのは、それらを駆使しながら、ある程度時間をかけて考えを巡らせ、最適な形でことばを与えアウトプットすることです。だからこそ、批評とは、その「重み」を通じて「世界との信頼関係を編む手段」であるとも言えるかもしれません。
批評とは、この世に残された、最後の希望の灯
ただ、次のような問題提起も可能でしょう――今は瞬間的な効果の方が優先される時代であるため、そもそも信用や信頼というもの自体の必要性が低下しているのではないか、という問いです。確かにいま、私たちは即効性の時代へと移行しています。信用よりも、インパクト。長期的な信頼よりも、今日バズるかどうか。そうした価値観の変化が、批評の存在意義を揺らがせているのは確かです。けれども、信頼が軽視されているのは、その構築が困難になっているからというのが真の理由ではないでしょうか。SNS以降、何かを信頼しようにも情報が速すぎて深く検証する前に話題が次へと移っていく状況ですが、一方で、私たちは確実に「誰の言葉を信じるか」「どの視点に委ねるか」を無意識に選んでもいます。つまり、信頼の必要性が消えたのではなく、信頼を構築する余裕が社会から奪われていると言った方が正しいかもしれません。そんな中で、思考と感受の痕跡が感じられる語りは、ありようによってはノイズの中の異質な静けさとして一層輝く可能性もあります。そのためには、これからの時代において批評は単なる「知識の披露」ではなく、「問いの共有」になっていることが大切です。自分の感性に閉じず、他者の世界と接続していることも重要でしょう。いま求められているのは、むしろ、“あなたもそう思ったんだ、私もです”という共振や共感かもしれません。文化的信用の形成の方法が、「正しさ」や「偉さ」ではなく、「自分もこの視点を信じてみたい」と思わせる語りの力になっていることが、これからも批評によって信用が作られていく際に大切なポイントとなるでしょう。もちろん、共感によって語りが馴れ合いに堕するリスクもあります。しかしそれでも、孤立の時代においては、応答可能な語りの土壌をつくるという意味で、共感の回路を開いておくことは意義深いのです。
さらにもう一歩踏み込んで論じるとしたら、これからの批評とは、「世界がこの後も“在る”と信じること」です。批評は、文化的アーカイブとなり、中長期的な信用を形作るものだと前述しました。それは、ある意味で反時代的でもあります。なぜなら、これだけ世の中のさまざまな基盤が脆弱になり、未来を信じることができなくなった時代に、それだけ長いスパンで物事を捉えること自体がとても非現実的な行為だからです。つまり、いま批評的な行為に対して最も有効な批判は、「世界の先行きがこんなにも不透明な時代に何を悠長なコミュニケーションをやっているの?」というエリーティズム批判です。それでも、わたしは、あなたは、書かなければいけないと思っている。なぜでしょうか。この点について、真剣に考える必要があります。
それは、わたしもあなたも、未来を信じているからです。あるいは、信じていたいからです。それに尽きるでしょう。いまの時代における批評とは、「この世界はもう終わりだ」と言われたときに、それでもなお「終わりません」と信じて語ることです。批評やレビューを掲載するメディアも同様です。そもそも中長期のレンジで物事を捉えている時点で、未来を信じているのです。これだけ不確かで脆い世の中を生きていると、生き物の本能としては、明日どう生き延びるかということに思考が終始するのが普通だからです。
先に、批評は時代によってその定義を変化させてきたと述べました。かつては、ある種の不機嫌さが批評的振る舞いとして美徳とされていた時代があったのです。それはなぜかというと、未来が今後も続いていくだろうという前提が大衆の中にあったからです。不機嫌さや冷笑を、知的誠実さとして許容する社会的余裕――つまり、言葉がこぼれても誰かが拾ってくれるという信頼、文化的蓄積に支えられた相互了解、そして何より、批評を受け止める側の地盤がまだ存在していたのです。批評が多少攻撃的でも、それが問いかけや問題提起として受け取られ、受け手にも考える余地や時間があった。ある種の共通言語や共通の未来像がまだ社会の中にあり、だからこそ、そこからずれる言葉が批評たりえたのだと思います。
対して、現在はもうそういう時代ではありません。明確な意図がなく冷笑的だったり不機嫌だったりする批評というのは、圧倒的に時代感覚が欠落していると言わざるを得ません。その種の知的態度は、ある時代の「オルタナ的知性」だったかもしれませんが、今は逆に、構造的暴力と紙一重の鈍感さとして機能してしまうことがあります。社会の地盤自体が脆弱になり、誰かを笑ったり突き放したりする言葉は、そのまま深い断絶になってしまう。余裕のない時代には、冷笑はただの断絶でしかなく、何も立ち上がっていかないのです。だからこそ、これからの批評は、やさしさや共鳴といった、信頼を回復する方向に舵を切る必要があるのだと思います。それは“甘さ”ではなく、荒れ地のなかで火を絶やさないための、いちばん実践的で勇敢な態度です。近く、世界が潰えるかもしれない――そういった感覚がリアリティを帯びてきている現在、それでもこの先の未来を信じてことばを紡ぐこと。そのことばがゆっくりとでも誰かに浸透し、何かの価値を形作っていくこと。批評とは、この世に残された、最後の希望の灯なのです。前述したラグジュアリーブランドの例になぞらえるなら、そういった企業がエシカルな面に注力したり、若手アーティストを助成したりといった取り組みを積極的に行なっている理由も分かるでしょう。結局のところそれは未来が今後も続くと信じているからであり、人は、その信念の灯に対して信頼を寄せているのです。
専門的なスキルとは一体何か
いささか遠回りしましたが、わたしの主張はある程度伝わったかと思います。批評は、その分量や発表される媒体を問わず、基本的には思考と感受の痕跡を残した「重い」ものである。それによって、信頼を築くための装置として機能している。そしてそういった在り方自体が、未来を信じる態度を前提にして成り立っている。ゆえに、たとえば絶望に苛まれ死を選ぼうとしているあなたが、最期に批評行為に身を投じたとしたら、それは最も美しい批評のひとつのかたちであると言えるでしょう。そこには、未来を信じる/信じないという究極のせめぎあいが成立するからです。そのくらい、批評とは個人の内面と世界の在り方とをつなぐ、ぎりぎりの場所に立ち上がる営みです。それは「もう何も信じられない」と思ってしまう瞬間にすら、なお何かを言葉にしようとする力であり、自分の存在を、この世界との関係性の中に刻みつける試みでもあるのです。
やや壮大な話をしてしまいました。「そんな覚悟は持っていない」という人が大半でしょう。心配する必要は全くありません。わたしにも、そんな覚悟は特段なかったからです。しかし、さまざま書いたり語ったりするにつれて、結果的にそういった価値観が立ち上がってきました。あくまで、いまの地点から見たアングルで綺麗に整え述べているだけの話です。ついては、一旦、ここではまず次のことを押さえてもらえば大丈夫です。文章にも語りにも、色々なレベルがあること。世の中にはますます多くの文章や語りがあふれているが、いわゆる批評的強度を持つものは限られていること。そしてそれには、ある種の専門的なスキル――思考と感受の痕跡を残したもの――が必要であること。では、その専門的なスキルとは一体何なのでしょうか。思考と感受の痕跡といっても、ただやみくもに考え感じていても、書いたり話したりできるわけではありません。
というわけで、いよいよ本題に入っていきましょう。次回は、書くこと/語ることそのものの方法について、説明していきます。