『もののけ姫』が“分断の時代”に問いかけるものーー宮﨑駿が提示した、善悪を超えた視座とは?
宮﨑駿監督のアニメ映画『もののけ姫』が、本日8月29日21時より金曜ロードショー(日本テレビ系)にて放送枠55分拡大&ノーカットで放送される。1997年に公開された同作の興行収入は201億8000万円で、当時の日本映画の興行収入記録を塗り替えたことでも知られている。公開から四半世紀以上を経た今もなお、同作を宮﨑駿の代表作と見る向きもあり、時代を越える普遍性を獲得したといえるだろう。
宮﨑駿の思想的変遷を追った評論集『宮﨑駿の「罪」と「祈り」 アニミズムで読み解くジブリ作品史』(blueprint)の著者であり、日本映画大学准教授の藤田直哉氏に、宮﨑駿監督作品における『もののけ姫』の位置付けと、現代の視点から見た意義を聞いた。
「『もののけ姫』は、宮﨑駿監督にとって最大の転機となった作品といえます。『未来少年コナン』(1978年)や『風の谷のナウシカ』(1984年)、『天空の城ラピュタ』(1986年)といった初期の宮﨑作品には、資本主義や戦争、科学は悪であり、自然や民族的なものは善という二項対立の構図がありました。その後の『となりのトトロ』(1988年)『魔女の宅急便』(1989年)『紅の豚』(1992年)といった作品は、戦争や資本主義への問題意識は比較的抑え目で、穏やかで牧歌的な側面が目立っていました。
しかし『もののけ姫』ではその図式が大きく崩されます。タタラ場を仕切るエボシ御前は、シシ神の森という自然を破壊する存在ではありましたが、同時に行き場のない弱者を救済する存在としても描かれていました。一方で森に生きるサンは、見た目はナウシカのようなヒロインで自然の側に立つ存在ですが、人間に対する怒りに駆られるなど、独善的な側面を持ちます。どちらも単純な善悪では語れない部分があり、これまでの宮﨑駿作品とは大きく異なります」
背景には冷戦崩壊後の国際情勢があったと、藤田氏は分析する。
「『紅の豚』の舞台近くで勃発したユーゴスラビア紛争などを目の当たりにした宮﨑は、敵と味方を峻別する二項対立的な思考そのものに限界を感じたのではないかと考えています。正義を掲げることによって争いが生まれ、改善の試みすら、また新たな悲劇の火種となる。そのような人間の愚かさの根源は、善悪を分ける思考自体にあるのではないかと、宮﨑は考えたのだと思います。だからこそ宮﨑は、善も悪も光も闇も包摂する“アニミズム的な視座”から世界を描こうとして、その思想が結実したのが『もののけ姫』だったのでしょう」
物語の主人公アシタカは、呪いを受けた存在として集団間の争いを調停しようとする。しかしその試みは失敗に終わり、多くの犠牲が生まれる。それでも「憎悪や敵対ではなく共存を志向する努力」が描かれた点に、藤田氏は本作の重要性を見出す。
「『もののけ姫』以降の宮﨑作品では、『千と千尋の神隠し』の油屋や『ハウルの動く城』の城など、多様な存在が共存する空間ーー宮﨑駿の言葉でいうところの“巨樹”の比喩が繰り返し描かれています(参考:梅原猛『巨樹を見に行く』)。人間、動物、昆虫などさまざまな存在が対立するのではなく、共存するプラットフォームとして“巨樹”があるという考え方です。その発想の起点にあるのが『もののけ姫』で、だからこそ本作は宮﨑駿にとって大きな転機といえるのです」
さらに藤田氏は、本作が持ち得た現代性についても強調する。2025年の今も、民族紛争やジェンダー対立、グローバリズムとローカル文化の衝突など、集団間の対立は世界各地で起き続けている。
「集団がアイデンティティを強く掲げると、互いの憎悪や報復が連鎖する。その構造は今の時代にもそのまま当てはまるでしょう。『もののけ姫』はその社会病理をモデル化し、どう食い止めるのかを問う作品なんです。サンとエボシの対立は、伝統と近代、反グローバリズムとグローバリズムの衝突にも読み替えられるでしょう」
単純な勧善懲悪を拒み、共存の道を模索する姿勢。絶望の果てに残されたわずかな希望ーー芽吹く草木や生き残ったこだまの姿。藤田氏はそこに、宮﨑駿の「祈り」を読み取る。
「新しいものが流入することで伝統や暮らしが失われることに対して、危惧を覚えるのは当然の心理です。しかし、それでもなお人間は共存の道を模索しなければ、争いの連鎖がなくなることはありません。『もののけ姫』はその難題を突きつけるとともに、同時にわずかでも希望を見出そうとしている。解決が困難な問題の数々がある限り、『もののけ姫』に込められた祈りは、我々の心を揺さぶり続けるはずです」