『鬼滅の刃』無限城編――胡蝶しのぶの宿敵・童磨に見る「自覚のない悪」の恐ろしさ
「おまえは………自分が『悪』だと気づいていない…もっともドス黒い『悪』だ…」――これは、荒木飛呂彦の『ジョジョの奇妙な冒険』第6部(『ストーンオーシャン』)において、ラスボス・プッチ神父に向かって、主要キャラの1人、ウェザー・リポートが放った言葉だ。
たしかに、プッチ神父が望んでいるのは、全人類が幸福になれる「天国」の完成であり、そこに悪意はない。たとえば、同じ「ジョジョ」シリーズの他のラスボスたち――DIOにしても、カーズにしても、多かれ少なかれ自らが人類にとっての災いであるという自覚はあり、そういう意味では、(少々変ないい方になってしまうが)“正しいヴィラン”といえよう。
しかし、プッチ神父には自らが「悪」だという自覚がないぶん、よりタチが悪い、あるいは、より恐ろしい「悪」なのだ。
では、なぜそうした自覚のない「悪」がタチが悪い(あるいは恐ろしい)のかといえば、それは、良心の呵責がまったくないゆえ悪行に歯止めがかからないということと、そしてもう1つ、こちらの方がより深刻な問題ともいえるが、自分が「悪」だと気づいていない者は、むしろ自らを「善」だと考えている場合が少なくないということだ。そういう人間は、何をいわれても改心することはないし、それ以前に、まともな会話が成立することもないだろう。
現在、大ヒット上映中の『劇場版「鬼滅の刃」無限城編 第一章 猗窩座再来』にも、そんな自覚のない「悪」が登場する。そう、上弦の鬼(上弦の弐)・童磨である。
※以下、原作および映画版の『鬼滅の刃』のネタバレを含みます。両作を未読・未見の方はご注意ください。(筆者)
「善」と「悪」は、時代や国によって変わる相対的なもの
上弦の弐・童磨は、鬼になる以前は、両親が興した「極楽教」という宗教団体で、「神の子」として崇められていた。
しかし、童磨自身は、極楽の存在などハナから信じておらず、当然、「神の声」なども聞いたことがないため、そんな自分にすがりついてくる信者たちを愚かだと思い、かつ憐れんでいた。
また、のちに「色狂い」の父が信者の女たちに手を出していたことを知り、半狂乱になった母が、父をめった刺しにして殺した際には(母はその後、服毒自殺)、両親を亡くした悲しみよりも、室内の汚れや鼻をつく血の匂いの方が気になっていた……。
こうしたどこか冷淡な描写の数々から、童磨は「人間味がない」とか、「感情が欠落している」といわれがちだが(鬼殺隊隊士の栗花落カナヲからも、「本当は空っぽで何にもない」といわれる)、果たしてそうだろうか。
私はそうは思わない。たしかに、「この世に生まれてきた人たちが、当たり前のように感じている喜び、悲しみや怒り、体が震えるような感動」(原作・第157話より)を理解することはできないかもしれないが、少なくとも、彼には(極楽などというありもしないものを信じる)人間を哀れだと思う気持ちはあり、そこに、なんらかの感情の動きはあるはずなのだ(前述のカナヲの発言に対しても、静かに「怒り」の表情を見せる)。
要は、「善」と「悪」は常に相対的な関係にあり、童磨の(あるいはプッチ神父の)「善」は、「いま」・「ここ」にいる大多数の人々が考える「善」とは大きくかけはなれている、というだけなのである。