聴覚過敏症、音恐怖症、音強迫症の少年による冒険譚ーー韓国の10代読者から熱烈な支持を得た小説『ビスケット』の魅力

 昨年から相次いで日本で公開された、韓国インディペンデント映画の良作。その中に描かれた10代の姿が、小説『ビスケット』と重なった。

キム・ソンミ『ビスケット』(矢島暁子訳、飛鳥新社)

 例えば『地獄でも大丈夫』は、校内暴力の被害者だった女子高生ナミとソヌが、クラスの修学旅行に参加せず、地獄行きを覚悟で自分たちをいじめたリーダー格に復讐を果たそうとするガールズ・バディムービー。

 また、『私たちは天国には行けないけど、愛することはできる』は、終末論が飛び交った1999年の夏、テコンドー部で顧問や先輩からパワハラを受けていたジュヨンが、少年院から来たイェジと出会う壮烈な初恋物語だ。

 いずれの作品も、自尊心を傷つけられながらも自分の居場所や人との繋がりを求める10代の姿と、彼らが直面する困難を鮮やかに描き出し、韓国内外の映画祭で絶賛された。そして、そうした傷につけ入る大人たちへの抵抗もしっかりと描かれている。とりわけ『私たちは天国には行けないけど、愛することはできる』は1999年が舞台でありながら、いまを生きる私たちと“距離”を感じさせない物語でもあった。

 お互いに向き合い、小さな勇気を出して手を取り合うことができれば、打破できる現実がある。『ビスケット』を読みながら、こうした映画の世界を何度も思い出さずにはいられなかった。

 青少年世代の自殺率が経済協力開発機構(OECD)加盟国の中で最も高い水準にあり、特に近年、10代の自殺率が過去最高を更新している韓国から届いた『ビスケット』。本書は、出版社ウィズダムハウスが主催した10代読者による投票のみで決定する「第1回ファンタジー文学賞」青少年分野の大賞受賞作品だ。さらに、韓国全国の図書館司書500人が選んだ2024年の「今年の1冊」にもなった、いま注目すべき作品である。

鋭敏な聴覚を持つ少年が、壊れやすい“ビスケット”を見つけ、救い出す

 タイトルの“ビスケット”とは、校内暴力や家庭での虐待、偏見や差別、無関心などによって自尊心を傷つけられ、自分自身を守る力を失って存在感をなくしてしまった人々のこと。新進作家キム・ソンミが、脆くて壊れやすい焼き菓子になぞらえて名づけた。

 主人公は、聴覚過敏症、音恐怖症、音強迫症の3つの症状を抱える少年ソン・ジェソン。彼は、父親が「あそこ」と言葉を濁す精神治療センターから退院してきたばかりで、母親からは「息子は韓国では暮らしていけない」と思われている。

 授業中にカチカチと鳴るボールペンのノック音、夜中に響くオートバイの爆音、マンションの上階で住人が走り回る音、人が言い争う声や押し殺したすすり泣き――。騒音だけでなく、他人なら気にならないようなかすかな音まで拾ってしまうジェソンは、音の出どころに復讐しないと気が済まないという、強迫症状に苦しんでいる。

 だが、この鋭敏な聴覚があるからこそ、ジェソンは息をひそめて生きている“ビスケット”の存在に、かすかな音や気配だけで気づくことができるのだ。ジェソンによると、ビスケットには3つの段階がある。少しの衝撃で割れ、砕け、粉々になってしまう繊細なお菓子、ビスケットの姿を実際に思い浮かべてみてほしい。

 第一段階は、半分に割れた状態。姿は見えているが、存在感はあまりなく、周囲から「あ、いたんだ?」と言われるような状態だという。それでも家庭、学校、社会など、どこかひとつにでも拠りどころがあり、持続的に関心を持ってくれる人がいれば、まだ自尊心は回復することができるとジェソンは信じている。

 第二段階は、バラバラになった状態。より自尊心がすり減ってしまった状態で、たとえすぐ横にいても「10人中5人が気づかない」ほどだという。

 さらに進んだ第三段階は、粉々になった状態。この段階に至ると、誰からも見えなくなって、存在そのものがこの世から消えてしまう。

 ビスケットはこの3つの段階を、行ったり来たりしながら揺れ動いている。もし「自分なんて消えてしまったほうがいい」と思い詰めてしまえば、あっという間に第三段階へと進んでしまうのだ。

 誰もが、ビスケットになり得る。校内暴力や虐待の被害者だけでなく、両親から関心も期待も持たれない少女や、職場で疎外されている大人たちもそうだ。同じ教室、家の中、電車の中、雑踏のなかにいるのに、まるで見えていないかのように、存在しないかのように扱われた経験は、誰にでも少なからずあるのではないだろうか。

 ジェソンは、そんなことが誰の身にも起こってはならないと信じ、彼の特別な能力でビスケットを見つけ出しては救う活動を、幼なじみのヒョジン、ドクヮンとともに密かに行っていた。保育園のころに、第三段階だったヒョジンをドクヮンと協力して助け出したことが、その始まりだった。成績優秀なドクヮンは鋭い洞察力で、ヒョジンは野生の勘のような嗅覚で、ビスケットの存在を察知する。

 あるとき、今にも消え入りそうなビスケットを見つけたジェソンは、突飛な救出作戦を決行する。本作は、そんな幼なじみ3人がビスケットを救うために奮闘する冒険譚でもある。

「子どもと一緒に読んだ」大人にも響く、ニューヒーローたちの物語

 社会問題を色濃く映し出しつつも、不思議と本書のトーンはシビア一辺倒ではない。性格の異なる3人のやりとりや、YouTuberとして成功を目指すヒョジンの従兄チャンソンのかもし出すユーモア、思いがけない初恋の甘酸っぱさ、ジェソンに救われた元ビスケットの大人たちによるスリリングな脱走劇ーー。物語は起伏に富んでおり、読者を飽きさせない。ジェソンが、自分自身がビスケットにならなかった理由に気づくプロセスも、本作の見どころのひとつだ。

 韓国のオンライン書店『Yes24』のレビューを覗いてみると、10点満点中9.4の高い評価で、「存在感に悩む青少年と大人に勧める」「本が嫌いな子どもが一晩中読んでいた」「子どもと一緒に読んだ」といった、幅広い世代から共感の声が寄せられている。

 本国ではすでに、ジェソンたちの新たな活躍を描いた続編「ビスケット2」が刊行され、好評を博している。作家のキム・ソンミは、「ビスケットに見える子どもたちが周りにいます。どのように助けてやればいいのか分かりません」という読者の悩みが、「ビスケット2」の出発点になったと語っている。

 ビスケットを救う物語とジェソンの成長は、続編でさらなる広がりを見せているようだ。そんな「ビスケット2」を紐解くようなプレイリストーーNCTマークの「Loser」、DAY6の「Zombie」、イ・ヨンジ feat. Jambinoの「ADHD」などーーがウィズダムハウスのYouTubeにて公開されている。

 韓国の10代たちに寄り添いながら、あらゆる世代にも深く響く「ビスケット」シリーズ。ジェソンのような能力を持たない私たちでも、この小さな手を差し伸べることで、誰かにとってのヒーローになれるのかもしれない。

■書誌情報
『ビスケット』
著者:キム・ソンミ
翻訳:矢島暁子
発売:2025年7月2日
価格:1,650(税込)
出版社:飛鳥新社

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