【連載】福嶋亮大「メディアが人間である」 第11回:戦争の承認、承認の戦争
3、戦争の延長としての政治
こうして、戦争の地理学は、映像メディアに接続するオーディエンスを組み込んで再編成された。21世紀のアフガニスタン紛争に従軍したイギリス陸軍士官のエミール・シンプソンは、まさにこのオーディエンスの重要性の上昇を踏まえて、新しい戦争論を構想した。その主張の要点は、敵と味方という「純然たる二極性」がもはや成立しないということである(※3)。
かつての戦争論では敵と味方が明確に区別されていること、そしてオーディエンスもそのいずれかの陣営におおまかには帰属していること、この二つがおおむね前提とされていた。しかし、現代の相互接続されたグローバルなネットワークにおいては、戦況を見守るオーディエンスがまさに「脱領土化」し、かつ著しく増大する。そのため、敵とも味方とも確定できない気まぐれなオーディエンスに、いかに自己の物語(ナラティヴ)を受け入れさせ賛同させるかが、戦略上の重要な課題となった。そのとき、戦争は当事者どうしの単純な勝ち負けには還元できなくなる。シンプソンによれば「戦争が成功か失敗かというのも、あくまで標的オーディエンスの心中でどう受け止められるかに左右される」。
シンプソンが強調するように、もともと戦争はボクシングと違って、勝敗やルールを決する絶対的なジャッジ(審判)はいない。グローバルなインターネット社会では、いわばジャッジそのものが激増し、それぞれの多様な利害関係が交錯するので、意見の不一致が常態化する。そのため、絶対的な「勝利」の概念は弱体化し、オーディエンスの支持の獲得という相対的な「成功(success)」が戦争の主たる成果となる。ドキュメンタリー映画も含めて、オーディエンスの日常のなかに戦争のナラティヴがひっきりなしに侵入してくるのは、そのためである。戦争の地理学は、今や戦場以外の娯楽の領域をも呑み込む――そのとき、戦争そのものが日常のなかで慢性化するのだ。
ゆえに、シンプソンは「自由民主主義諸国は、いまや夢遊病者のように戦争とも日常ともつかない茫漠たる国際政治へと入り込みつつある」と記しながら、結論として「戦争は政治の延長である」というクラウゼヴィッツの戦争論の有名なテーゼが、今や「政治は戦争の延長である」というテーゼに反転したと述べている。19世紀初頭のナポレオン戦争に従軍したクラウゼヴィッツは、国民国家を中心的な行為者とする「政治」を延長したところに「戦争」が現れると考えた。これは明快な構図である。しかし、21世紀になると、意見や評価の不一致が常態化した、グローバルで脱領土的なネットワーク社会の「戦争」の延長として(あるいはその戦争を条件として)「政治」が現れてくる。そこでは、かつての戦争論の構図は半ば壊れてしまうだろう。
※3 以下、エミール・シンプソン『21世紀の戦争と政治』(吉田朋正訳、みすず書房、2024年)92、102、103、113、357頁より引用。
4、承認の非対称性
国民国家どうしの戦争は、非戦闘員を含めて、国家内のあらゆる資源を戦争に差し向ける「総力戦」へと到った。総力戦は「政治」が「戦争」を規定するというクラウゼヴィッツ的なモデルの帰結であり、それが世界戦争という大惨事の条件となった。このモデルは、フィクションの想像力も輪郭づけてきた。20世紀の戦争映画やアニメは――わかりやすく言えば『ガンダム』であれ『ナウシカ』であれ『エヴァンゲリオン』であれ――、おおむねこの政治(国家)が主導する総力戦の延長で作られてきた。そして、この総力戦の「余白」の、つかのまの平和な日常を輝かせるのも、日本のテレビアニメのお家芸であった。
むろん、このような総力戦のモデルは消滅したわけではない。しかし、この構図をなし崩しにする事態が生じてきたことも、もはや無視できない。21世紀のグローバルなネットワークを、特定の国家が完全に掌握することはできない。だからこそ、煌々と光るスマートフォンに目を奪われた、まさにシンプソンの言う「夢遊病者」のような現代のオーディエンスに、いかに自陣営のナラティヴを受け入れさせるかが、戦争と政治のゆくえを決することになる。
ともあれ、オーディエンスにおける≪戦争の承認≫は、マクロな戦争の「成功」の鍵を握る重要な課題となった。その一方、今やインターネットのソーシャルメディアはミクロな≪承認の戦争≫の主戦場となっている。夢遊病者のようなオーディエンスはひどく気まぐれで飽きやすいため、ちょっとした刺激で怒りや関心の矛先をすぐに変えてしまう。この不安定さが、承認を求める戦争をいっそう激化させることになるだろう。かつてヘーゲル(クラウゼヴィッツと同時代人でもある)の言った「承認をめぐる闘争」は非常に複雑化し、かつ先鋭化している。
ここで忘れるべきでないのは、承認する側と承認される側のあいだには、必ず非対称性があることだ。市場においては、貨幣を払って商品を得るという交換が(恐慌のような極端なケースを除いて)成功する。しかし、承認をめぐる闘争には、このような対称性の成立する保証がない。
ソーシャルメディアは双方向的なコミュニケーションという外見のなかに、承認の非対称性を隠してしまう。つまり、彼我のあいだにフラットで「対等」な相互承認が成り立っているように信じさせる。だが、それは錯覚にすぎない。承認されているはずなのにされていないというズレが増幅し、そこに金銭の授受がからんだりすると、殺人事件のような深刻なトラブルに発展するケースも珍しくない。ソーシャルメディアで承認欲求がバブルのように増大しがちなのも、対等な相互承認そのものがバブリーな幻想にすぎないからである(※4)。「主人と奴隷の弁証法」というヘーゲル哲学の中心的概念は、この承認の非対称性を浮き彫りにしたものである。
このミクロな≪承認の戦争≫を延長したところに、今日の「政治」が現れる。21世紀の戦争ドキュメンタリー映画もまた、この承認の非対称性からは解放されない。オーディエンスの心は移ろいやすく、忘れっぽい。しかし、この不実きわまりない存在から承認を得なければ、戦争の「成功」は難しい。ゆえに、承認をめぐる闘争はますます激化し、収束する見込みはない。そこに≪メディアが戦争である≫時代を特徴づける陰鬱さがある。
※4 もう少し繊細に説明すれば、承認のゲームとは本来、他者のために自己中心的な欲求を相互に制限する行為である(アクセル・ホネット『私たちのなかの私』日暮雅夫他訳、法政大学出版局、2017年、28頁)。つまり、相手の欲望を予測し、それに応じて自己の欲望を抑えることが、承認の獲得には必須なのだ。しかし、この自己制限をどれだけ主観的に積み重ねても、望む結果が得られるとは限らない。インターネットは対等な承認を見かけ上可能にするだけに、かえって承認のゲームの失敗はその理不尽さと自己制限ゆえの犠牲の感覚を強めてしまうのだ。