杉江松恋の新鋭作家ハンティング ハヤカワSFコンテスト大賞作品『羊式型人間模擬機』『コミケへの聖歌』を併読
「荒廃した世界のはずれにあるイリス沢集落地の、そのまたはずれの森の仲に、われらが《イリス漫画同好会》の部室はあった」という文章から小説は始まる。おお、部室小説か。「荒廃した世界」というのは比喩ではない。一部で使われる「腐界」という単語が今ぱっと頭に浮かんだがそういうものでもない。本当に世界は荒廃しているのである。なんらかの事情で旧文明は終末を迎え、残された人々は地域的に孤立した状態でなんとか生きている、という状況がすぐにわかる。国家と言えるような大きな社会はすでに機能を停止しており、集落こそが個人にとっては最も大きなものになっている。だいたい、姓もこの世界には存在しない。夫婦別姓どころの騒ぎではなくて存在しない。現在の日本のような緻密な戸籍制度だっておそらくは存在しないのだ。そういう孤立状況である。
少し先走りすぎた。状況説明が終わった後、漫画同好会の統率者である比那子の「今年こそは、冬が来る前にコミケに行くよ」という口癖が紹介されて物語が始まる。これだけなら先行の部室漫画、部室小説と変わらない。だがコミケとは「旧文明の崩壊前に《廃京》の海岸で開かれていたマンガの祝祭で、わたしたちが掘り出したマンガの単行本も、かつてはそこで生み出されていたのだという」と続く説明を読めば、同一視はできないことがわかる。急いで言えばこの世界においては、すでに印刷物を読むという行為が廃れ、禁忌の対象にさえなっているのである。禁止されたマンガを廃墟の中から発掘し、読めない部分を自分たちで書いてしまおうという動機から《イリス漫画同好会》は出発している。
二次創作というよりは一次の補完か。そうしているうちに創作への意欲が高まっていった。だからコミケなる祭りがあったら行きたいのは当然だ。だが障壁が高すぎる。現在の地方在住高校生だってコミケ会場に行くのは大変だろうが、この世界においてはその比ではない。なにしろ交通網は分断されており、途中には恐ろしいノブセリが出て命の保証はないのだ。正確な地図もないし、だいたい〈廃京〉で本当にコミケが開かれているという保証すらない。
視点人物の〈わたし〉ことゆーにゃ、本名・悠凪は、にもかかわらず強引にコミケ行きを進めようとする比那子を苦々しく思っている。行けるわけがないからだ。部活を終えて家に帰ると、また落書き遊びをして、と母親に叱られる。〈わたし〉は家業の診療所を継いで働かなければならない身の上なのだ。自分が情熱をこめてやっている創作を落書き遊びされて〈わたし〉は傷つく。マンガやアニメだったら、お母さんなんか知らない、と叫んでご飯も食べず自室に駆け戻るところだが、そんなことはできない。三度の食事を摂るということが大事な世界だからだ。食べなければ、たぶん死ぬ。そのくらいせちがらくて、生活は制限されている。最低限の文化的生活、なんて言っていられないほどに。
こんな風に、物語が進行するにつれて見えることが増えていき、世界に新しい意味が付け加わる。新たな意味によってそれまでの叙述に解釈がなされ、〈わたし〉たちに対する共感が高まっていく。そういう小説だ。
実は〈わたし〉たちの受けている制限はご飯が満足に食べられないどころではない。もっと身につまされることが後の方に出てくる。そのくだりを読んだとき、私は飛び上がった。あるSFの古典的短篇を読んだときと同じくらい飛び上がった。そういう小説だったのか、と思った。鋭利な刃物で胸を貫かれたようだった。でも読むのを止められなかった。止めてはいけない、と思った。『まんがタイムきらら』連載作品みたいな話かな、と思って近寄ったらこれだ。誘い込まれた読者はもうこの世界から戻れなくなる。
見えることに特化した小説と見えることが刻一刻と変化する小説。まったく違う二作に今回は心を掴まれた。小説の可能性を感じさせてくれるという意味でも併読が望ましいと思う。