スカム・ヘミングウェイによるハードボイルドな写真小説ーー豊田道倫『午前三時のサーチライト』評
ミュージシャンである豊田道倫の小説を読む場合、音楽と切り離して考えることはほぼ不可能だろう。町田康の小説を読めばパンク(INU)だなあ、中原昌也の小説を読めばジャンク(Hair Stylistics)だなあと感じるのと同様、豊田道倫の小説を読めばスカム(パラダイス・ガラージ)だなあと感じる。「自分の書いたものはどこまでいっても「音楽」な気もする」と豊田本人も認めているから、尚のことそう感じる。
ラーメンズでは笑えない僕のような人種にとって、ザーメンズのスカム感は救いであった。正式には豊田道倫&ザーメンズ。そのバンドの『アンダーグラウンドパレス』(BUMBLEBEE RECORDS、2011)のCDがいま目の前にある。黄色一色のポップなジャケットで、歌詞カードを開くとパープル地のうえに白字で以下のような言葉が見つかる。
「ハンバーガー コカコーラ 発泡酒 コンビニ弁当
豚キムチ ペスカトーレ とんかつくん ベーグルバニー」
羅列されたこれらの言葉にいちいち生活のリアリティが感じられる人間にとって、豊田の音楽、そして小説は「真実」として響くであろう(シャンパンやリムジンのようなラグジュアリー感ある語彙は豊田ワールドではリアリティを持ちえない)。今回俎上にあげる『午前三時のサーチライト』でいえば、「タール1ミリのメンソール」という著者の身近にある何でもないモノが、自然とモノ語の起動装置になる。貧しさのなかに豊かさを見つけていく私小説の手触りと匂い、地を這いずる低域のベース音がずっとある。
故郷の大阪に戻り、コロナ渦に紡がれた作品群だという。思っていたほど大阪ローカルが強調された内容ではないが、西成の釜ヶ崎のライブハウス、通天閣の下にあるタバコ屋、新世界の廃墟になった連れ込み宿など、随所で登場する大阪の地名は、田中登『(秘)色情めす市場』のようなエロスとタナトスの匂いがするものばかりだった。帯文には「生活とイリュージョンの往還からうまれた20篇の物語」とある。たしかに小説なのかエッセーなのか判然としない形式を採用しており、この実験的アバウトさに関しては大槻ケンヂ『今のことしか書かないで』(ぴあ、2024年)とやけに似ていることに驚いた。
大槻の作品も日常エッセーがいつのまにか幻想小説へと変容していくジャンル解体性があったし、母親の介護や死んだミュージシャン仲間の思い出が綴られていて、死の香りが濃厚だった。『午前三時』もまた「女が死んだと知ったのはTwitterを開いた時だった」の書き出しではじまり、夭折した仲間のフォークシンガー加地等やAVライター雨宮まみの追悼エッセーも収録されているから、こちらもメメント・モリ(死を想え)な色彩が濃い。50代を超えて身近に「死」が感じられるようになった二人のミュージシャン兼作家の作品を読み比べてみるのも一興ではなかろうか。
短く、無骨な文章を連ねていくゴリゴリした文体で、「たった一つの本当のことを書け」(『移動祝祭日』)と言ったヘミングウェイのマスキュリンな文体に近いところもあるが、ところによってはハードボイルド文学のパロディーふうになったりもする。「光明の街」からサンプルを一つ。
「酒、薬物、女、ひとの命。
何でも金を払えば買えるような街に良心など、どこにも眠ってはいない。」
大藪春彦かレイモンド・チャンドラーの犯罪小説からの抜粋と言われてしまえば、そのまま信じてしまいたくなるハードドライなノワール節だ。「スラム街の悲しい目をした犬」では、尻尾を嚙みちぎられた犬に、泥のように不味いコーヒーに、赤線地帯など、1970年生まれの著者とは思えない、戦後焼け跡派に擬態したようなモチーフまで湧いてくる。というよりこのみすぼらしい犬は、紛れもなく森山大道の都市を徘徊するあの犬であろう。森山の写真集『OSAKA』の一枚を『結婚出産離婚引越し戦争入院創造』(JET SET/25時、2023年)のジャケットに使用するほどに心酔している豊田なのだから。
森山大道を強く意識したような、豊田道倫本人が撮影したという見事なモノクロ写真が『午前三時』には12枚使われている。地下鉄のホーム、排水溝のフタ、駐車場、電信柱と青空、夜の舗道、ややピンボケしたバーカウンターのグラス——選ばれた風景はありふれたものでありながら、情緒的なカットとして絶妙に機能している。明確に本文とリンクしているのは最後のほうの中南海メンソール1ミリタバコの写真だけなのだが、そのほかの写真もすべて豊田ワールドを豊かに肉付けしている印象を受ける。
とりわけ排水溝のフタを撮った一枚は強烈だ。タバコの吸い殻なのか、鳥の糞なのか、ザーメンなのか、何だかよく分からない白い汚物が大量に付着していて、見るからに「スカム」だ。インスタ映えの対極にあるグロテスクさだし、森山大道の美意識やスタイルからも容認されない一枚のはずだ。とはいえ「センスやクオリティーやテクニックなんかより、ただ、しょうもないゴミのようなものだけど、何か捨てがたいもの」(本書あとがき)がここにはある。