ヤマザキマリが語る、『美術の物語』の普遍的な魅力 「何世紀も残り続けていく書籍であることは間違いない」

『美術の物語 ポケット版』(河出書房新社)

 洞窟壁画から現代美術までの美術史を、豊富な図版とともに魅力あふれる語り口で解説したエルンスト・H・ゴンブリッチによる名著『美術の物語』が、待望のコンパクトサイズとなって2024年10月18日に河出書房新社より刊行された。1950年に初版が刊行された同書は、美術史の入門書にして決定版として何度も版を重ね、現在では全世界800万部超の大ベストセラーとなっている。

 今回の『美術の物語 ポケット版』は、図版とともに本文を読むことができた元の大型本の魅力を最大限に活かすべく、前半に本文、後半に図版をまとめて、2本のスピンを用いることで読みやすさを追求しているのがポイントで、持ち運びにも便利な新書サイズの仕上がりだ。お求めやすい価格となっていることもあり、発売されるやいなや店頭から在庫がなくなるほどの大ヒットとなっている。(※出版社在庫は既に完売。重版出来は2025年5月下旬出来予定)

本文を読みながら図版を鑑賞できるように、2本のスピンが用いられている

 漫画『テルマエ・ロマエ』の作者で、美術史の専門家としても知られるヤマザキマリ氏もまた、フィレンツェで美術を学んでいた頃に本書に出会い、美術史の面白さに目覚めたという。本書が時代を越えて読み継がれる理由について、ヤマザキマリ氏に解説してもらった。

美術に対する深い愛情が詰まった一冊

――本書『美術の物語』は、美術史を学ぶ人にとっては定番中の定番の一冊になっているとか?

ヤマザキマリ(以下、ヤマザキ):その通りです。私自身も2019年に出版された大きい版の『美術の物語』を持っていますが、初めて手に取ったのはイタリア語版でした。フィレンツェで美術の勉強をしていた10代の頃、学校の美術史の先生から最初に読む美術史の書籍として勧められたのが、この本だったんです。イタリアだけでなく、おそらくどの国においても、初めて美術史を学ぶ人にとっては必須の一冊なのではないかと思います。もちろん、この本の他にも読んでおくべきとされる美術の本は何冊もありますが、美術や美術史の関心を誘うという意味では『美術の物語』が効果的なんじゃないでしょうか。

 本書の良いところは、なんと言っても読みやすいのと、美術史の本であると同時にそのときどきの歴史的な背景がしっかりと立ち上がってくるところ。美術に関する事だけではなく、それこそ私が今やってるような仕事に繋がる、歴史全体への興味が強く湧くようになったのも、この本の影響もあったはずです。今回、ポケット版の帯を読んで驚いたのですが、この本は世界で800万部以上も売れているんですね。

――1950年に原著が出版されて以来、日本を含む世界35ヵ国で出版されていて、現在の累計刊行部数は800万部を超えているようです。

ヤマザキ:美術の専門書でその部数は本当に驚きですね。美術史を専門的に研究されている方は昔から結構いたとは思うんですけど、一般の人たちに向けた美術史の本というのは極めて画期的だったはず。いわゆる専門家向けの本は、読み手がもう詳細を知っているという体で、わかる人がわかれば良いというスタンスの書き方になっていることが多いけれど、この本はそういう突き放したところがまったくなくて、著者のゴンブリッチの「自分がすごく興味のあることを、いかなる読者とも共有したい」という気持ちが伝わってきます。イタリア語で初めて読んだときから、そのイメージは変わりません。個人的な知識をひけらかすためではなく、本当に好きだから、いろんな人にも知ってもらいたいという、あたたかい先生の講義を聴いているような心地よさがあって、ゴンブリッチ自身の美術に対する深い愛情がそこかしこに感じられる。まさに真心が詰まった一冊だと思います。

――本書は、先史時代から現代に至るまでの美術の歴史を、400点を超えるカラー図版と共に紹介・解説した本ですが、一般的に知れられている有名な美術作品が数多く登場すると同時に、初めて見るような作品も結構登場しますよね。

ヤマザキ:書いてある内容自体は、すごくわかりやすく美術史の基本的な流れを紹介したものになっているんですけれど、そこに出てくる作品のセレクトは、意外とマニアックだったりするのが本書の魅力だと思います。「この画家の作品で、なぜこの一枚を選ぶ?」というのが結構あって。たとえば、初期ルネサンスが生んだ天才マザッチョの作品であれば、普通は「楽園追放」という革新的なヌードを描いたと言われている絵が選ばれるのが常ですが、ゴンブリッチはなぜか「聖三位一体」を選んでいる。有名な絵だから出しておこうというのではなく、彼が考える美術史の流れの中で重要な作品を選定している。今年、日本で大規模な展覧会が開催されたデ・キリコにしても、この絵(「愛の歌」)よりも、マネキンのモチーフを描いたもののほうが有名ですし、パッと見てわかりやすいじゃないですか。ただ、この本の中にも書かれているように、デ・キリコはギリシャで生まれ育ったイタリア人で、ギリシャ、ローマの美術に対する憧憬がすごく強かった人なんです。マネキンの絵だとそうした彼の生い立ちとしての背景が見えにくいけれど、「愛の歌」を見るとひと目でわかる。そうやって、文章と絵で美術史の核心を理解できるところが、この本の素晴らしいところです。

――作品によっては、その一部分を拡大した図版も合わせて掲載するなど、わかりやすさが非常に重視されています。

ヤマザキ:ヤン・ファン・エイクの「アルノルフィーニ夫妻の肖像」という精緻なテクニックで描かれた作品の一部――夫妻の後ろの壁に掛かっている小さな鏡の中に、実は画家自身の姿が描かれていることなんて、図版だと拡大しないと絶対にわからない。そういうところまで丁寧に紹介されているのも、本当にありがたいです。同じくファン・エイクの「ヘント祭壇画」では、祭壇を閉じたところと広げたところの2つを合わせて掲載してくれていて、そうした演出に著者の興奮と熱意を覚えます。

細部のポイントが確認できるよう、適宜アップの写真も使用されている

美術史家としての想像力

――いわゆる「名画100選」のような無難なセレクトではなく、彼が考える美術史の大きな「流れ」の中で重要な作品がセレクトされているという。

ヤマザキ:いくら読みやすいとはいえ、ゴンブリッチは、決してポピュリズム的なウケを狙ってこの『美術の物語』を書いたわけでは無いでしょう。そこには良い意味で美術史家としての「主観」がある。きちんと筋が通っているし、知識のひけらかしではない血の通った文章になっている。そういう意味でも、この本はやはり「教科書」ではなく「物語」なんです。

 良い物語には、良い想像力が稼働しているもので、ゴンブリッチもこの本の中で美術史家としての想像力を存分に活かしているように感じます。史実を的確に踏まえながらも、まるで自分がその場で見てきたかのように書くんですよね。ときどき「知り合いなの?」っていうぐらい、取り上げている画家たちと近しい書き方になっていたりしてますけど(笑)。だからこそ、読み物としてもすごく面白いんです。

――それぞれの画家を紹介するときに、美術的な説明だけではなく、彼らの出自や性格も簡潔に書かれていて。「セザンヌ、ゴッホ、ゴーガンの3人はみな、本当に孤独だった。理解される可能性など、ほとんど信じていなかった」みたいな文章がサラッと書いてあるところがすごく面白いし、興味を掻き立てられます。

ヤマザキ:核心をしっかり突いていますよね。カラバッジョの解説なんて、凄まじいことがサラッと書いてあるじゃないですか。「カラバッジョの場合、人と親しくするのは例外的なことで、乱暴で気の短い彼は、すぐにカッとして、短剣で人を刺すような男だった」って、いったいどんな画家だよ(笑)。でも、こんなふうに、記述にある以上の知識を深く掘り下げたくなる気持ちがそそられるのは、美術史を理解する上で実はとても大事なこと。ただ真面目くさった記述で説明されても、関心が持てないじゃないですか。ゴシップ欲って大事なんですよ(笑)。彼はそういう読者の心理も、よくわかっていたはずです。

――エジプト、ギリシャ、ローマあたりに行くと、さすがにどんな性格の人が描いたのかわからないところがありますけれど……。

ヤマザキ:その頃の人たちは、「芸術家」というよりも、どちらかとえば「職人」ですからね。14世紀から15世紀初頭までは個人的に自己主張をする創作家はそんなにいませんでした。私が描いた『リ・アルティジャーニ――ルネサンス画家職人伝――』という漫画は、まさに「職人」が「芸術家」に変わる過渡期を描いた漫画作品ですが、当時の画家たちは家具などを作る職人と同じ姿勢が求められていました。

画家も彫刻家も皆工房の所属。だから、作者が作品に個人的なサインをするようなことは、依頼者から頼まれるなど特別な状況以外、滅多にありませんでした。この本にも載っているボッティチェリの超有名な「ヴィーナスの誕生」ですら、彼の文字によるサインは入っていません。その代わり、このくらいの頃から自分たちの絵画の中に自らの姿をカメオ出演させるという兆候が現れる。そうしたことも含め、徐々に創作が特別なことであるという主義主張が生まれ、それが賞賛されるようになって、初めて私たちがイメージするような「芸術家」が現れるというわけです。その辺りのことも、この本に書かれている大きな流れの中で見ると、すごくよく理解できると思います。

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