松岡正剛は何者だったのか? 「知の巨人」「香具師」……探求続けた“編集者”としての「強さ」と「弱さ」

  また、『知の編集工学』は、「述語的であること」の重視を掲げたのが特徴だ。主語の重視には、主体性への拘泥や、あれかこれかの選別がつきまとう。それに対し松岡は、「~だ」、「~であろう」、「~かもしれない」と述語的につながる大切さをうったえる。同書の物語をめぐる議論や述語重視に示されているのは、「編集」の観点から世界の可変性や、厳密ではない(「適当」「見当」などの言葉で表現される)「らしさ」をとらえようとする姿勢だ。

天井近くまで蔵書されている角川武蔵野ミュージアムの内観

  ただ、角川武蔵野ミュージアムの「本棚劇場」、「エディットタウン」のエンタテインメント性は、配列に工夫がされているものの、本棚の高さ、書籍の多さなど具体的な物量のスペクタクルによるところが大きい。「エディットタウン」では来場者が書籍を出し入れできるにしても、決まった場所に物が固定的に置かれるのは、可変性を是とする編集工学の理念とズレがあるようにも感じられる。その意味で「本棚劇場」でプロジェクションマッピングが行われ、本棚を映像で変貌させるのは、固定されたその場に可変性を与える試みなのかもしれない。

  とはいえ、『知の編集工学』において、現実の対象のシミュラークル(模擬物)を空間的に表示するヴァーチャル・リアリティは、「エディトリアリティ」とは違うと記されている。その意味ではプロジェクションマッピングは、シミュラークルの類だろうし、「本棚劇場」のあり方は「エディトリアリティ」的ではない。

『知の編集工学 増補版』の文庫解説で大澤真幸(「ユリイカ」の特集にも寄稿している)は、生成AIとの会話は、松岡のいう編集工学とは異なると断じている。日本語の「手前」が「てめえ」に、「御前」が「おまえ」になり、一人称(主)と二人称(客)が容易に入れ替わるのが日本的編集方法だとした松岡の主張に言及しつつ、大澤は生成AIが相手では主と客の交替が生じないと述べる。これもシミュラークルの否定だろう。背後には、主語ではなく述語を重視する編集工学は、主と客の交替を可能ととらえているという理由がある。

  そのように松岡は、著述ではシミュラークルに否定的だったが、「本棚劇場」のように
エンタテインメント性を求められる企画では、シミュラークルの導入も厭わなかった。
二面的な態度をみせたのだ。

    角川武蔵野ミュージアムだけでなく、『千夜千冊』、『情報の歴史』もそうだが、松岡のプロジェクトは、しばしばスケールの大きさや多さといった押し出しの強さがエンタテインメント性、スペクタクル感に直結している。それが面白さでもあるが、彼は正反対の感性も持っていた。

 『知の編集工学』の原本の1年前に刊行した『フラジャイル』(1995年)で松岡は、「弱さ(フラジリティ)」を評価した。同書で彼は「あいまいな領域を示す言葉」が好きで、「あいまいな動向を示す言葉」に大きな役割があると書き、「弱い言葉」を擁護する(可変性や、主語より述語を重視する姿勢につながる思考だ)。そのうえでネットワーカー(=編集者)は、縁側(中心ではなく周縁)をつなぐ人々であり、「もともと情報というものは「弱さ」や「欠如」のほうへむかって流れる」と語る。つまり、周縁にある弱さをつなぐのが理想の編集者だというのだ。そのうえで洒落本、黄表紙、浮世絵など、江戸時代の出版文化を盛り立てた版元・蔦屋重三郎(2025年のNHK大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』の主人公でもある)について、「推薦したくなるようなフラジリティをもったネットワーカーではなく、強靭でダイナミックな波及力をもったネットワーカー」と評した。

  この部分は、今読み返すととても興味深い。松岡は、著述家として「弱さ」と繊細にむきあうのと並行して、実業家としては「ダイナミックな波及力をもった」プロジェクトを推進する「強さ」をみせていたのだから。編集者として彼は、相反する性格をあわせ持っていたわけだ。松岡正剛がカリスマになった理由は、そのへんにあるように思う。

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