「なにが歴史的事実かという議論になると、限りない泥沼に陥っていく」 慶應大教授に聞く、歴史学のプロセスとその意義
慶應義塾大学経済学部教授の松沢裕作氏による新書『歴史はこう考える』(ちくま新書)が、9月9日の発売直後に重版が決定するなど、歴史好きの間で話題となっている。
同書は、史料をひたすら読み込んだり、あるいは過去の出来事の是非について論争したりといったイメージが先行する歴史学者たちが、実際にはどんなプロセスを経て研究をしているのかを、さまざまな論文の例を挙げながら著した一冊だ。
昨今のSNSなどでは、歴史に関しての論争が繰り広げられることが多く、特に「なにが事実か」を巡ってぶつかり合うケースが目立つが、松沢氏はそのような論争の前に、まずは歴史学のプロセスを知ることが重要だと説いている。その真意について、詳しく語ってもらった。(編集部)
歴史学者が何をやっているのかを具体的に
――本書『歴史学はこう考える』は、早くも重版が決まるなど、大きな反響を呼んでいます。
松沢裕作(以下、松沢):こんなに反響があったのは意外で、歴史に関心を持っている人は思っている以上に多いのだと改めて感じました。歴史そのものに対する人々の関心が高いからこそ、それを学問として扱う「歴史学」に対する関心も高まっているのかもしれません。
――なぜ歴史学そのものを扱う本を書こうと思ったのでしょう。
松沢:昨今はSNSなどで歴史について語る人がたくさんいる一方で、政治的な場面でも「歴史認識問題」が熱く語られている状況があります。どちらも結局のところ「なにが事実か」を巡っての論争になりがちです。そのような状況を見て考えたのは、歴史学の専門家たちが、自らの仕事がどのようなものなのかを説明できていないのではないか、ということ。当たり前のことかもしれませんが、歴史学者に限らず、人は自分が普段やっていることを正確に説明できないことが多い。たとえば、美味しい飲食店を経営している人に「どうやって作っているの?」と聞いても、意外と説明できなかったりします。
――自転車の乗り方とかもそうですよね。
松沢:まさにそうです。歴史学者のやっていることもそれに似ていて、説明し難いところがある。いざ説明するとなると「頑張って史料を読む」とか「とにかくトレーニングを積む」とか、説教臭くなったり、ともすれば精神論になってしまったりする。私はそれが不満で、改めて歴史学者が何をやっているのかを具体的に説明したいという思いがありました。
そのためには抽象的なことを言っていても仕方がないので、歴史論文の書き方を具体的に解説すると同時に、実際に発表されている歴史論文のいくつかを腑分けして、書いている本人でさえ気づいていないであろうことも分析して提示しようと考えました。いきなり他人の論文を分析するのもフェアではないので、まずは自分が書いた論文を細かく分析して、どういうふうに史料を読んでいるのか、どのように議論を組み立てているのか、なぜここでこういう語尾を使っているのかといったことを説明しました。
――本書は「第一章 歴史家にとって「史料」とは何か」から始まって、続く「第二章 史料はどのように読めているか」で、松沢先生自身が過去に書いた「逓信省における女性の雇員と判任官」という論文が、どのような意図と手続きのもとに書かれたのかを細かく解説しています。そのあとの第三章からは、政治史、経済史、社会史の具体的な論文が、細かく分析されていきます。論文の読み解きが最大の読みどころですが、取り上げる論文はどのように選んだのでしょうか?
松沢:普通の良質な論文を選びました。研究状況を一変させるような、あまりに画期的な論文は、通常のフォーマットに沿っていないことも多いので。専門家の間で普通に読まれて、ちゃんと評価されている論文とはどのようなものかを、まずは提示したかったんです。その分野では有名だけれど、一般の人はまず読まないだろうなというものを敢えて選んでいます。
――政治史、経済史、社会史という3つの分野から選んだことには、どのような意図があったのでしょう?
松沢:その3つの分野は、かなり考えて選びました。歴史学というものは必ずしも一枚岩ではなく、一言で「歴史学の観点から見るとこうである」と結論づけられるようなものではないんです。歴史学には多くの潮流があり、相互に関連しています。研究者それぞれの関心は異なるため、同じような手続きで史料を読んだとしても、自ずと出てくる答えは変わってきます。その実例を示すには、政治史、経済史、社会史を取り上げるのが良いと考えました。歴史学には様々な観点があるということも、本書で伝えたかったことの一つです。
――政治学、経済学、社会学などは、それぞれ別の学問領域があるわけで、そう考えると、歴史学の扱う領域は思いのほか広くて大変だと感じました。
松沢:そうですね。本書の「あとがき」にも書いたように、私自身は文学部の歴史学科を卒業して、いわゆる歴史学というものを学んできたのですが、教師としてたまたま経済学部に勤めることになって、経済学者たちに交じって学生たちに歴史を教えることになったんです。経済史は、経済学との関係が強く意識されるので、経済学の方法と歴史学の方法の関係性が日々問われます。ふたつの学問で重なる部分もあれば、やはり異なる部分もあります。
歴史学に社会学のエスノメソドロジーを応用
――他分野との横断と言えば、「あとがき」にもあったように、本書のインスピレーションの源が、社会学のエスノメソドロジーにあったという話が意外でした。
松沢:エスノメソドロジーとは、人間が行動しているとき――たとえば、誰かと会話を交わしているときに、その会話のデータを細かく取って、その会話によって何が行われているのかを明らかにするような学問です。たとえば、ここで相槌を打つとか、ここをダブって発話しているのは、どういう意味があるのかなど、そういうことを研究しています。その方法論は、歴史学者が史料を読むという行為を分析するのに応用できるのではないかと考えました。たとえば、史料の形がどういう形をしているのか、どこに印鑑が押してあるのか――それを「史料の様式論」というのですが、歴史学者はまずそこに注目するんです。エスノメソドロジーの「どういう形でコミュニケーションしているのか?」を細かく分析するのと似ていますよね。
――なるほど。
松沢:エスノメソドロジーは、外側から大きな理論を持ち込んで説明するのではなく、実際に人間がやっていることを細かく検証して、人々が使っているロジックや概念をつかみ出そうとします。歴史家の間でもよく、外側から理論を当てはめてはいけないと言いますが、そういうところにも共通性を感じました。史料に遺された痕跡をもとに、そこで人々が何をやっていたのかを細やかに考えるのが歴史学だとすれば、エスメトロジーが自覚的に洗練させてきた方法論に学ぶことで、歴史学の方法論も明確にできるのではないかと期待しています。