「“わからない”が存在する限り物語を生み出していける」川村元気が違和感を重ねて描いた『私の馬』

 映画プロデューサー・映画監督であり、『世界から猫が消えたなら』『百花』『四月になれば彼女は』などのベストセラー作家でもある川村元気の最新小説『私の馬』(新潮社)が刊行された。造船所の事務員として働く主人公・優子が、ストラーダという名前の元・競走馬に出会い、「彼」の馬主となるために組合のお金を着服し、最終的には億を超える横領を犯す――。本作を書いたきっかけや物語を通して伝えたかったこと、映像作品とはまた違う小説を描くことの意義など、川村本人に話を聞いた。

取材のために100頭もの馬に会って気づいたこと

川村元気が3年ぶりに書き上げた長篇小説『私の馬』(新潮社)

――本作を描いたきっかけは、約4年前に実際に起きた類似事件だと伺いました。

川村元気(以下、川村):実際の事件で、容疑者の女性は10億もの金額を横領したのですが、彼女は贅沢もせずギャンブルにつぎ込むこともせず、ただ馬にのめり込みました。事件を知った周囲の人たちはみんな「なんでそんなことを」と笑っていたけど、僕は笑えなかった。僕たちが抱える寂しさや生きづらさみたいなものと、その事件はどこかで繋がっているような気がした。彼女の行動は一見するとエクストリームだけど、実はそうでもないのではないか、と。

――それで、次作のテーマにしようと。

川村:すぐに書こうと思ったわけではないんです。ただ、なんだろうこれは、と思ったものは、いったん自分のなかにある「違和感ボックス」に入れる。そうしていくつかの違和感が溜まって、共通項で結びついたときに、物語になるなという感触が生まれる。今回は、事件後のコロナ禍で、ひとり暮らしの友人たちが続々と犬や猫を飼い始めたことがきっかけの一つとなりました。「これで完璧になった」というようなことを、彼らが一様に言うのを聞いて、完璧ってなんだろうと思ったんですよね。

――心の穴が埋まった、ということでしょうか。

川村:たぶんそういうことなのだと思います。ここ数年……特にコロナ禍に入ってから、僕たちの生活のなかには加速度的に言葉が増えている。SNSを見れば、人を傷つける言葉があふれ返っていて、うんざりするのに見るのを止められない。そんななか、人間と違って、言葉でのコミュニケーションが必要ない動物との暮らしに、何か満ち足りるものを感じたのではないか、と思った。その感触が、馬に10億を注ぎ込んだ女性の姿に、どこか繋がる気がしたんです。それで、まずは取材してみようと、100頭くらいの馬に会ってコミュニケーションをとるところから始めました。

――そんなに! 何か、発見はありましたか?

川村:岩手県の遠野で、ただ馬を引いて山道を歩くというプログラムに参加したんです。ところが馬はその気にならないと動いてくれず、手綱を引っ張ってもびくともしない。そうなると、根気強く待つしかないんです。やがて馬がその気になってくれたら、手綱に体重を感じないほど、すっと軽やかに動き出してくれる……。自分が日々の生活をいかに言葉でコントロールしようとしているか、そして「待つ」ことができなくなっているかを痛感しました。

――クイックレスポンスが当たり前になっていますからね。

川村:LINEの既読システムは、象徴的ですよね。返事がこなくても、既読表示がされただけで、コミュニケーションが成立したような錯覚に陥ってしまう。本来、対話というものは、相手の表情や相槌の声色などで空気を察し、話を続けてもいいのか終わらせてもいいのかを判断する力が必要とされる。でも、たとえばリモート会議だと、音声が重なって進行が滞る恐れがあるから、相槌を打つことすら控えるようになる。そうするとますます、クイックレスポンスだけのやりとりで話が進行していく。

 僕たちは「待つ」ことに耐えられなくなっているし、同時に、コミュニケーションで当たり前に発生する、傷ついたり傷つけたりというやりとりにも、耐性がなくなっているんだろうなと思います。

――動物との関係に安らぎを覚えるのは、その傷つきがないからでしょうか。

川村:むしろ、声色や態度で相手の機嫌を察しなくてはいけない、本来のコミュニケーションを取り戻しているんじゃないかなという気がします。馬と接するうちに、僕も、これが本来のコミュニケーションなんだよなと感じるようになりましたから。何をしてもこちらの思い通りに動いてくれない、って当たり前なんだなと思いました。特に馬は、圧倒的に僕らより身体が大きく、力も強い。いきなり背後から接触したら蹴り飛ばされることもあるけど、そこに悪意はない。学ぶことは多かったです。

違いを自覚して傷つくことこそ、コミュニケーションの始まり

作品を通して現代のコミュニケーションについて問いかける

――先ほど、SNSでは人を傷つける言葉があふれている、とおっしゃっていましたが、近年、どれだけ言葉を尽くしても他者とわかり合えない感覚があって、どうしたらいいのだろうと思っていたのですが、そもそも言葉でのコミュニケーションをどうやってとるのか、自分も含め、みんなが忘れかけているのかなと、お話を聞いていて思いました。

川村:思ったことを率直に言葉にすると、パワハラと受け取られかねない。発言をオープンにすると批判の対象になり、誹謗中傷を受けることもある。だったら黙っているのが一番だと思う人も増える。もっともわかり合いたい、わかり合えるはずの家族とでさえ、まともに会話ができているだろうかと僕自身も顧みることは多々あります。でもその感覚をそのまま物語にしてもおもしろくないから、今作では馬という象徴的な存在を中心に据えたというわけです。

――人との関わりが薄かった優子が、ストラーダに出会って初めて、他者に強く思い入れるということを知り、言葉がないからこそわかり合えたような錯覚に陥るけれど、だんだんとその錯覚を自覚して取り乱していくさまが、人間同士の関係に重なっておもしろかったです。

川村:おっしゃるとおり、特殊な関係のように見えて実は僕たちの日常に重なるところが多くある、というのが物語のおもしろさなんじゃないのかなと。けっきょく馬は馬でしかない、人間とは違うのだということを思い知らされる優子は一種の絶望を味わうけれど、「違う」ということを自覚して傷つくことこそが、コミュニケーションの始まりなんじゃないかとも思うんです。そこから、もう一歩踏み込んだ、次の段階に進んでいけるのではないかなと。

――自分の生活を満たしてくれる理想の存在としてではなく、ただそこにある一つの存在としてのストラーダに優子が向き合う瞬間が、ラストで描かれるじゃないですか。それが、とても美しくて好きでした。他者を美化することも過度に理想を託すこともやめて、その存在と向き合うことが、誰かと生きていくためには必要なんだな、って。

川村:ありがとうございます。あのラストをコミュニケーションの断絶ととらえる方もいるんですけど、僕は絶望のつもりでは描いていなくて。ストラーダの世話をしてくれる乗馬クラブの麦倉さんも、落馬で怪我を負った経験があるうえで、馬とともに生きる選択をしている。僕が取材したほとんどの人たちも、そうでした。みんな傷だらけで、なかには車椅子で生活している人もいるんだけれど、それでも自らの意志で、馬と一緒にいることを選んでいる。……そういえば、僕自身、馬に興味を持った最初のきっかけは、落馬したことでしたね。

――えっ、大丈夫だったんですか?

川村:大丈夫じゃなかった(笑)。初めて乗馬したとき、山道を馬が暴走して振り落とされて、10メートルくらい引きずられたので大怪我をしました。さすがにしばらくは怖くて乗れなかったけど、でも、不思議と「もういやだ」とは思わなかった。むしろ、そこまでの目に遭わされることが日常ではないからこそ、圧倒的な存在として興味を持ちました。みんな、実は同じなんじゃないかなあ。ゴジラとか人間を襲う恐ろしいヒグマの話とか、大好物じゃないですか。得体の知れないものへの関心は、誰しも抱いていると思うんですよ。

――人間同士の関係でも、わけがわからないからこそ知りたい、と思って振り回されてしまうことは少なからずありますよね。

川村:そう、同じなんじゃないかなと思います。ただ、ひとつ興味深かったのは、事件の容疑者も優子も、馬とコミュニケーションをとるために選んだ方法が「お金」なんですよね。馬には、お金の価値なんてわからない。ただの紙切れでしかないのに、喜んでもらうための手段がお金を注ぎ込むことしかないというのは、皮肉だなあと。

――他の女性馬主とのバチバチした関係も含めて、乗馬クラブはホストクラブに似ているという描写もありました。

川村:ストラーダのように、競走馬として活躍できなくなり乗馬クラブに引き取られるのは、ままあることなんですが、サラブレッドは毛並みも筋肉の付き方も美しく、とにかくイケメンなんですよ。乗馬クラブに女性が多いのも納得するくらい、男性性を漂わせている。エルメスで馬具や洋服をそろえて、一種の富や欲望の象徴としても扱われている「馬」というのは、本当に興味深いなと。考えてみれば、フェラーリやポルシェのエンブレムも馬ですしね。

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