カンザキイオリ × 梶裕貴 対談【後編】「人に愛がある限り自由なんて無い」

カンザキイオリ『自由に捕らわれる。』(河出書房新社)

 小説第3弾『自由に捕らわれる。』を発売するアーティスト/小説家・カンザキイオリと、カンザキの処女作『あの夏が飽和する。』の朗読に参加したことをきっかけに交流を続ける声優・梶裕貴による、二人が共鳴する対談の後編は、カンザキの最新作『自由に捕らわれる。』にスポットを当ててトークを繰り広げる。『自由に捕らわれる。』というタイトルをフックに、それぞれの自由に対する考え方が展開されていく。「僕は“自由を求めるキャラクター”を演じがち」という発言で、現場を爆笑させた梶。一方カンザキは「人に愛がある限り自由なんて無い」とコメントして周囲を納得させた。子どもの自由と大人の自由の違い、そしてカンザキが本書を届けたいと思う相手……。実は似たもの同士の二人が、自由にトークを繰り広げる。

参考:梶裕貴 × カンザキイオリ 対談【前編】「“創作”は社会で生きていく術であり、命をかけているもの」

カンザキ「声だけで100%物語に寄り添った表現ができる声優さんはすごい」

――梶さんは、カンザキさんの曲も小説もご存じということで、カンザキさんの作品の魅力をどう感じますか?

梶:昨今、音楽と文章の両面で活躍される方が増えていますよね。文章というスタイルで物語を紡げて、さらには、その言葉を歌詞として集約し、音楽に乗せて届ける。あらためて、全部自分ひとりで形にされていることの凄さを感じます。違うアプローチでひとつの世界観を構築できるというのは、表現者としてはもう最強ですよね。歌詞も、まるで小説を読んでいるような没入感があって。特に「あの夏が飽和する。」を初めて聴いたときは、まるでキャラクターたちがメロディに乗せて会話をし、そこで感情を爆発させているような感覚に陥って…思わず、鳥肌が立ちました。歌詞を文章として読んでエモーショナルな気持ちになりましたし、逆に楽曲を聴いて、お芝居と通じるものがあるなとも感じました。

カンザキイオリ『あの夏が飽和する。 ―全文朗読付き完全版―』(河出書房新社)

――6月に『あの夏が飽和する。―全文朗読付き完全版―』が出ましたが、最初に小説を書かれたときは、主人公の声やキャラクター設定などのイメージもあったのですか?

カンザキ:『あの夏が飽和する。』は私が22~23歳のときの作品なのですが、書いた当時はそこまでは考えていませんでした。むしろその逆で、私が言いたいことを全部吐き出そうという意識が強かったと思います。でも朗読で、入野自由さん(東千尋役)、茅野愛衣さん(水原瑠花役)、梶さん(石田武命役)の3人がラストシーンで相対したところは、本当にすごかったですね。これは『あの夏が飽和する。』を読んだ方にも、改めて聴いてほしいです。それまで武命は、私のなかの一部でしかなくて、自分の嫌なところを具現化したキャラクターでした。そもそもの私は人を傷つけることは言いたくないし、人から嫌われる勇気も無いので、それをあんなにも堂々と代わりに叫んでくれたことがすごくうれしくて。何より梶さんが、作品のことをすごく考えて声を当ててくださったことが伝わってきて、すごくうれしかったし、スピンオフを自分が朗読をすることになったときのプレッシャーが半端じゃなかったです。

梶:いやいや! それは僕らが小説を書けないのと同じですし、間違いなく、著者の方自らが声を当てることの価値はありますから。

カンザキ:そんなお言葉をいただけてうれしいです。梶さんのセリフを聴いて、「このままじゃダメだ!」と思って、朗読のレッスンを一回だけ受けて、それくらい緊張したんです。

梶:そうだったんですか!

カンザキ:自分でも経験したことで、声だけで表現することのすごさを改めて知りました。文章は校閲や編集で修正されたとしても表現に幅があるので、声だけで100%物語に寄り添った表現ができる声優さんはすごいなって。

梶:これは役者にもよりますけど、僕は結構「もうちょっとこういう読み方がふさわしいんじゃないか」というアイデアが、読みながら同時に出てきてしまうタイプなので、「もう一度読んでみてもいいですか?」とやり直させていただいた部分もあって。果たして、それがカンザキさんの文章を表現する上でベストなのか、はたまた星の数ほどいる読者の皆さん一人ひとりの感性に全てを合わせることは確実にできないわけですから、そのなかから、どんな表現をチョイスしていくべきなのか、すごく難しかったです。

 何人かの役者が集まって上演する朗読劇という舞台であるならば、相手のセリフを受けて、必然的に答えはスッと絞られるんですけど、自分ひとりでの、しかも収録となると、必ずしも他の方の声を聴ける状況ではないので、お芝居をしながら、頭のなかで相手のセリフを色々と想像して、「やっぱりこっちの言い回しの方が相応しかったんじゃないか?」と逡巡してしまうんですよ。なので…そんな葛藤を経てようやく辿り着いたのが、あの朗読というわけなんです(笑)。カンザキさんが求めるものに、少しでもお応えできていたらいいなと思いながら、必死に収録していました。

カンザキ:完全に武命でした!

梶「いい意味での不安定さが刺さった部分も間違いなくある」

PV『自由に捕らわれる。』カンザキイオリ小説最新作

――さて8月23日にカンザキさんの新刊『自由に捕らわれる。』が発売されました。主人公の姿夜も秘密を隠しながら生きていて、琥太郎の死をめぐって様々な人と出会うことによって成長していきます。楽曲を作ったときの思い出などあれば、教えてください。

カンザキ:「自由に捕らわれる。」という曲を書いたのは2018年で、私が21歳のときでした。そのときは小説のことは全く考えていなくて、ナチュラルにいろんな言いたいことがあったので、それを曲で言おうと思って書いたんです。当時はまだ社会人に成り立てで、上京して夜勤のアルバイトをしていて。その会社にはアルバイトで入ったんですけど、時期が5月で、制服が間に合わなくて私服で初日は出社しました。そのときスーツを着た女子社員が来て、「新入社員の○○です」と挨拶をしてくれたんです。同世代で、彼女は内定をもらって入って、僕は単にアルバイトで入って。そのときすでになにかしらの差が生まれていることに、大きな衝撃を受けました。

 そもそも私は内定が取れなくて悩んでいたときがあったし、なんであのときは社会の枠組みのことばかりに囚われていたのか分からないけど、そのときのことがずっと頭のなかにあって。まあ、ずっとフリーターだったかもしれないけれど、なんで自由にやってはいけないのだろうという思いが、ずっと心のなかにあって、それがなにかの拍子に爆発して生まれたのが「自由に捕らわれる。」という曲です。ただそのときはなにも考えていなくて、小説を書こうとも思っていませんでした。それが去年、次の小説が書きたくて題材になるものがないか探したときに、選んだのがこの楽曲でした。

――ほかにも曲があるなかで、どうして「自由に捕らわれる。」だったのですか?

カンザキ:私はずっとKAMITSUBAKI STUDIO/THINKRというレーベル/事務所に所属していたのですが、愛されすぎてしまって。いろんな方に守られていたので、もっと自分の足で立って創作をしなきゃダメだと一念発起して昨年5月に独立したんですけど、自分の環境の変化もあって「自由」をテーマに書きたいと思ったので、「自由に捕らわれる。」が打って付けだと思って。

梶:「自由」と「捕らわれる」という真逆の言葉が組み合わさっている感じがたまらないし、そういうタイトルを考えつくのも素晴らしいですよね。

カンザキ:曲を書いて以降は満たされてしまったところがあったので、今回改めて「自由に捕らわれる。」って何だろう?って、めちゃくちゃ考えています。

梶:あれ?(笑) では、楽曲を書かれた当時の自分や歌詞の内容を思い返したときに、今のご自身からすると「若いな」とか「青いな」みたいな感覚はあるんでしょうか?

カンザキ:めちゃくちゃありますよ。まず文法とか気にせず書いていたので、あのときのほうがナチュラルに自分の書きたいことを書いていたなって思うし。それ以降は、それこそ“売れなきゃ”“どう書けば大衆に響くか”、そんなことも考えながら曲を書き続けてきてしまったなと思って、当時の青さが逆に怖くなりました。

梶:なるほど。当時は、いわゆる"ジャックナイフ"のようだった人でも、やはり誰しも大人になっていくものなんですね(笑)。

カンザキ:ちょっと話が『あの夏が飽和する。』に戻ってしまうのですが、今年出た『全文朗読付き完全版』の朗読を聴いたとき、『あの夏』は昔書いた作品だったので、水原瑠花なら自分のなかの少女性、石田武命なら自分の暗いところ、東千尋は自分の大人なところと、あのころの自分を詰め込んでいたので、それが本当はめちゃくちゃ恥ずかしかったんです。でも、そういう“青さ”は創作に大事なんだなって。

梶:その年代のときにしか出せない魅力みたいなものってありますよね。すごくわかります。僕もよく「ご自身の演技を振り返ってどうですか?」と聞かれることがあるんですけど、単純に上手い下手の価値観で言うと、当然経験を積んでからのほうが、表現としてはスマートで最適解を導き出せているとは思うのですが、若いときには若いときにしか出せない良いがむしゃらさがあって。オーディションひとつとっても、ベテランも新人も関係なく、対等な環境で受けるんですけど、どう考えてもベテランのほうが安定しているし、誰が聴いても納得するものが生み出せているとは思うんです。

 けれど、それでもそのキャラクターの"等身大の音"がするからという理由で新人に決まることも往々にしてある業界です。そして、その判断は正しいことが多い。だから、もしも同じテーマで今のカンザキさんが同名の小説や曲を書いたとしたら、伝わるものや共感を得られる世代が、より広がる可能性もあるんだろうなと思ったんです。でも、そのときのカンザキさんだからこそ…曲を書かかれたときの(カンザキさんの)年齢に近いであろう二十歳前後の世代や、これからそれを経験するであろう十代に、いい意味での不安定さが刺さった部分も間違いなくあるんだろうなと思います。その危うさに惹かれるというか。

カンザキ:ありがとうございます。でも、ちょっとさっきから悔しいです。梶さんが僕を立ててくださってばかりだから。

梶:いやいや! 立てているわけではなく、思ったことを言っているだけですから!(笑) あ、そうそう。ひとつお聞きしたかったんですけど、『あの夏が飽和する。』も『自由に捕らわれる。』も、文の最後に「。」が付くのはどうしてですか?

カンザキ:「。」を付けるのは、楽曲「命に嫌われている。」が最初で、自分のなかでちょっとした“ブーム”だったんです。小説になったこの2曲に関しては、「あの夏」は完全に文章だし「自由」は歌詞がめちゃくちゃ長いから、歌詞と言うよりも文章として伝えたくて、文章で使う読点を付けた覚えがあります。ただ創作者としてあるまじき発言ですけど、基本的にはノリでしかなかったと思います。“されどノリ”と言うか。

梶:いや、きっとそれがいいんです! その“ノリ”が!

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